●恋愛小説●

□古ぼけた一枚(作成中…)
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 私は、ただ見つめていた。
 彼の笑顔が頭に浮かんで、私の意識を全て支配していた。ゆっくりとした一定間隔で流れる電子音が、私の頭を真っ白に染めていく気がした。座っている感覚はなくて、自分の生きている感覚すら忘れかけている気がした。どうせなら、私も眠りたかった。彼と一緒に永遠の時を刻んでもいいと思った。
「愁……」
 彼は、私の言葉を聞いていなかった。
 ベッドの上に横たわり、瞳を隠していた。口には、大きなプラスチックがはめられて、私はそれを何度もはがしたくなった。でも、はがしたら、彼は私のそばからいなくなってしまう。それが分かっていたから、あえて何もしなかった。ただ、彼を見つめることしか出来ない自分が、なんとも情けなく、薄情にさえ思えてならなかった。
 もう何十年もここにいるようだった。四角い機械が置いた部屋で、彼は眠り続け、私は彼の無表情な顔を永遠に見つめ続けているのだ。
 私は、椅子を少しずらして、彼に近づく。でも、近づけば近づくほど彼は遠くなっていくようで、私はまた胸を痛めた。
 膝の上で硬く握っていた手をゆるめ、そっと彼の手の平に触れた。冷たく見えた手は、想像と反して暖かかった。暖かすぎて、自分の手があまりに冷たく、氷のように感じてしまった。知っている、彼のぬくもりに他はなく、それに触れた私は思わず瞳を閉じた。

 全てが、嘘のようだった。彼が今ここで、こうして眠っていることも、私がこうやって彼の手を握り締めていることも。そして、彼と出会ったことさえも、全て現実ではなく夢だったのではないか、と思っていた。けれど、彼の顔ははっきりとそこに存在し、私という存在を否定していなかった。暖かい小さな手のぬくもりだけが、私と彼の存在を証明してくれていた。汚れてしまった私の手さえも、彼は快く迎えてくれるのだ。
 一定間隔の電子音は、私の耳の奥に躊躇なく響きわたる。私は、そんな音を聞きたくなくて、片手で片方の耳をふさいだ。けれど、彼の命を繋ぎとめている証拠のメロディーを止めることなど、私には出来ないし、何より彼自身を否定したくなかった。
 彼はそこで生きている。息をしている。そうなんでしょ。
 私の心の中で呟いた問いに、彼は答えてはくれなかった。それでも私は、彼を見捨てることも、彼を楽にしてあげることは出来ない。たとえ、彼が私に永遠に微笑みかけてくれなくても、私はずっと微笑みかける。それは、彼と約束したことだった。
『ずっと笑っていてよ、それがいいんだから』
 彼の笑顔は、私の中で新しい台風のように吹き荒れていた。目の前にいる彼は、何も分かっていないのだろうか。それとも全てを理解していて、あえて瞳を開けることを拒否しているのだろうか。明けない彼の空は、もう、私を見下ろしてくれないのだろうか。
 私は、もう迷わない、そう決めた。彼の笑顔が、私のそばにあるなら、私はどんな罪だって受けてかまわなかった。それが激しく痛い罪でも、全てを失ってでも、もう迷いたくはなかった。今まで迷ってきた私の最終的決断だった。
 ドアをノックする音が聞こえた。私は、目線だけをゆっくりとドアに向ける。スライド式のドアが開き、現れたその顔に、驚いた。
「佑介…」
 私が漏らした名前に、入ってきたその人は、微笑んだ。
「ごめん、来た」
 佑介はそれだけ言うと、私から目線をずらして、彼の方を見る。「彼が…愁?」
「うん、そう…」
 私は、それだけ言うと、また彼の方へ目をやる。佑介の視線が少しだけ痛かった。佑介がいなかったら、そんなことを考える自分が激しく嫌だった。全て、自分がいけなかったのに。
         
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