理不尽に爛漫に/道理に叶って絢爛で

□諸々取り敢えず日々は巡る
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 命や身の危険が必ずしもあるという訳ではないが、ほんの小さな気の緩みの有る無しで全てが引っくり返る様な、山田利吉が今回請け負った仕事は端的に言えばそんな風に気を遣う難しい仕事であった。
 それを、本来掛かるだろう想定よりも随分早く完了させた彼は、少々の疲労と共に、そして件の仕事の苦労に対してと考えると少々割りに合わないと思えなくもない額の礼金を懐に、とある城下の、一軒の茶屋へと入る。

 自身の技巧と立回りを遺憾無く発揮せざるを得なかった、その要因の元へ、一刻も早く向かうつもりだった彼だが、それは叶わない事が早々に分かった。故に、彼は今、ほんの少しだけ苛立っている。
 そんな彼が、茶屋で休憩などという悠長な事をしたのは、つい先程に往来で聞いた微かな音である。常人にはまず聞こえないだろうその音、忍の暗号である矢羽音。更に言えば、彼が聞いたものは、彼の生家取り決めのものであった。

 茶屋の一席に徐に座り、やれ喉が乾いたなといった風情で、茶を頼み、それを待っている内に、彼の招かれざる待ち人は現れる。それに気付いて上げた顔が引き釣りそうになるのを、彼は全力で堪えた。
 茶屋の中へ、彼の元へと歩いてくるのは、華やかな小袖に身を包み、艶やかな黒髪を肩に流し、鮮やかな紅を唇に差し、力強い眼差しをした……この様に部分部分を取り上げて行けば麗しの乙女が来たかの様であるが、悲しいかな、それらを全て携えて現れたのは、彼の父親である。
 父、山田伝蔵の女装姿、通称『伝子さん』は、しゃなりしゃなりと利吉の前へと歩み寄り、彼の隣へと腰を下ろした。
 「お待たせしたわね」と、にっこり微笑む、伝子嬢の仕草は完璧にうら若くかつ麗しい乙女のそれであり、ともすれば本来は頑健な体躯が優美な細腰の様に感じられる。おなごと見るには勇ましすぎる顔を更に強そうに見せる濃い化粧も、その仕草と佇まいのせいで、何と無くこの様な女性もいないことは無いのかも知れない、いや場合に寄ればこの様な女性に琴線を擽られる男もいないこともないやもとまで思わせた。全ては熟練の忍の成せる徹底した変装技術に他ならないのであるが、利吉からすれば、忍として尊敬する父親から、何とも言えない姿で艶めかしくすり寄られている訳で、何やら情けないような悲しい様な気分になる。しかも更に言うならば、父親もとい伝子嬢の所作には自身の母親のそれとの相似も見てしまい、何ともはや、複雑なのであった。

「良く此処が分かりましたね……ち、姉上」
 
 父上。と言い掛けた瞬間に、あまりに鋭い矢羽音による叱責を受け、呼び方を変えた顔からはとうとう引き釣りが隠せなくなってきた。

「偶さかに、見掛けただけよ。ちょうど、言伝てを預かっていたから会えて良かったわぁ」
「言伝て……?」
「ああ……言伝て、というのは私がそう判断したのだけれどね…………」

 伝子嬢は、ふと口をつぐみ、利吉にゆっくり目を向ける。その沈黙には固さは無く、眼差しには父たる者、親なる者らしい相手を包む様な柔らかさがあった。

「葵ちゃんが、戻ってきたわ」

 親なる顔で、穏やかな声で聞かされたその名前に、利吉の表情は少なからず動いた。驚いた様な、そして、安堵した様な、落胆もしている様な、複雑であれど父の目からは分かりやすいそれを見返す伝子嬢の笑みは益々深い。

「…………そうですか……。彼女、独りで?」

 分かっている。予想はできている。
 けれども、敢えて、利吉は聞いた。伝子嬢は笑みを崩さず首を横に振りながら「うちの、桔梗色の子達とね」と、だけ答えた。
 利吉の深い溜め息に、伝子嬢の密やかな笑いが被さる。

「葵ちゃんたら、帰って来た早々に私の所へ来て、貴方に世話になったと頭を下げてきたのよ。私に礼を言ったって詮の無い事でしょうに、それでも言っておきたかったんですって」
「相手が弱っている所へずけずけと踏み込んで、居直っただけの事ですよ」
「何もかもどうでも良くなるその寸前に、崖の縁に立ち塞がってくれたみたいだった……と、言っていたわ」

 ぽん、ぽん。と、伝子嬢の手が、微かに萎れている様な利吉の背を軽く叩く。

「有り難う。これは、私からもよ。私達の生徒を、貴方は少なからず助けてくれたのね」
「……助けるつもりだった訳でも無いし、礼を言われる為にした訳でも無いです」
「んなもん分かっちゃいるわよ。こっちはこっちの立場で話してんだから、大人しくそのまんま受け取りなさい」

 漸く、席に茶が運ばれてきた。受け取った少し温いそれを、利吉は一気に傾け、喉を鳴らしながら飲み干す。

「礼だか何だか知らないですが、直接会って、聞いて、触れなきゃ、私には何の意味も無い」

 口許を乱暴に拭いながら、憮然とした表情と苛立った口調でもってぼやく利吉に、伝子嬢は再び可笑しげな笑い声を立てる。

「そうね。その通りだわ。頑張んなさい」

 ころころと、乙女然とした笑い声を上げる父の徹底ぶりには、やはり引き釣るものを感じるが、それは顔には出さず、利吉は寧ろ何処かすっきりした顔で立ち上がる。

「ところで……本当に偶さかなんですよね」

 一人の若者から一転して、忍の顔となった利吉は、伝子嬢を振り返る。

「ええ、そうよ。ちょっとした野暮用」

 矢羽音も聞こえてこない。澄ました顔で微笑む伝子嬢が、父が、一人の忍が何も語らないのであれば、それはその通りなのだと受けとるしかない。

 利吉は静かに、曖昧に頷いて、笠を頭に被り直した。

「姉上、彼女に会えたら伝えて頂きたいことが」
「あら。私も直ぐに戻るわけじゃあ無いのよ……貴方、直接言いに行かないの?」
「それが、此方ももう少し野暮用がありまして」
「……そう。まあ、良いわ。何て?」

 利吉はゆっくりと笑みを浮かべた。柔らかいが、苦笑の色が強い。

「立ち塞がる為にいたのではなくて、いっそ、共に落ちても良いと思って、私はそこにいた。と」

 伝子嬢は目を瞬き、じとりと眇め、大袈裟に肩を竦めながら深々と溜め息を吐く。

「嫌ぁよ。んな重っ苦しい言葉。自分でおっしゃいな」

 利吉は、伝子嬢に答える事は無く踵を返して歩き出す。

「……まったく。誰に似たのやら」

 残された伝子嬢の低い呟きは、往来へと紛れて消えていった利吉に届いたのか。また暫くして、伝子嬢も席を立ち、利吉とは違う方向へと、往来に去っていくのであった。

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