咄、彼女について
□藍の手・其の五
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「見えたのならば、あるさ」
鏡子は、そうあっけらかんと、事も無げにぽつりと言い放った。
「……あるつったって、正確な場所はまだ全く分かんねぇじゃないか! って、うおっ!?」
俺が詰め寄れば、鏡子は「あやぁ」と呟きながらおもむろに手を上げ、俺の髪に触れたのだ。さっきの強風で乱された髪を、そっと撫で付ける指。俺は驚いてその手を払い除けた。
「留三郎は、何も見えなかったのかい? なぁんの見当もつかんなんてこたねぇだろう?」
鏡子は気にする風でもなく、払い除かれた手を静かに下ろしながら、不思議そうに聞き返してきた。
「見当、って……」
俺の目は無意識に、ある木立の間へと向けられる。先ほどの、俺達の髪をバサバサに乱すほどの強い風が、吹き抜けていった方向がはっきりと分かる。風の中には蛇がいた。風に包まれた白蛇が飛び去っていった先。
「多分、あっちじゃないか?」
小平太が言った。
俺だってそう思う。思うが、その時は、素直に認めたくないという気持ちの方が勝った。
「だいたいの方向がそっちだとして、正確な行き方は分からねぇだろ」
それに……。と、俺はついさっき頭の中に浮かんできたものを思い返す。
風の中を飛ぶ白蛇は、最後、伊作が見えた手前で何かに弾き飛ばされている。深い、藍の色をしていた様に思う。何やら嫌な感じがするのだった。
「闇雲に行くよりは良いよ。近づけば、俺が音を拾えるかもしれないし」
長次がそう言った。
い組の二人もそちらへ向かう事に異論は無いようだ。特に、仙蔵は、先程からその木立の間の、暗闇の先をじっと見据えて微動だにしない。
ふと、視界の端に白いものがひらひらと動いた。
「怖いなら、手を繋いでいくかい?」
鏡子が、白い手を俺の前に差しのべていた。
頭の奥の、さらに奥で、何かがゆらりと、像を結んだ。足元から何かが立ち上ってくるような、そんな錯覚。
気が付けば、俺の指は微かに鏡子の掌に触れていた。すると鏡子は、自分からそれを仕掛けたというのに、いきなり噛みつかれでもしたかの様な、ぎょっと驚いた表情を浮かべて、それに驚いた俺も直ぐに我に帰ってばっと手をどかす。
「しねーよっ!! ほら! 行くぞお前ら!!」
「なんでお前が仕切るんだよ」
「あ!? なんか文句でもあんのか!」
「もう止めなよ。さっきから、文次郎も留三郎も……今は喧嘩してる場合じゃないだろ?」
「やる気充分のところ悪いけれど、先導は仙蔵にしてもらうよ」
鏡子の声に、思わずぎくりとする。見れば、先程の奇妙な空気など何にも無かったかの様に、平然として、寧ろ胡乱な白い顔がそこにあった。視線に気付いたのか、鏡子も俺を一瞬見る。その一瞬に、鏡子は微かに笑みを浮かべた。
「私で良いのか? 私だって、正確な道は分からないんだぞ?」
「仙蔵の足が向くままに歩いてくれりゃ良い。それでまあ、多分辿り着くさ」
「多分なのか」
「あとは伊作と、向こうさん次第さね」
「どういう意味だ」
「その内分かるさ。とにかく進んでおくれ」
そんなやりとりの後、仙蔵が歩き出せば、残りもゾロゾロとあとに続いていく。
俺も、つい先程の鏡子が見せた、嬉し泣きの様な笑顔の残像を振り払うように後に続くのだった。
暫く歩き続ければ、徐々に足場が悪くなり、道なんてものは無くなり、薮の中を掻き分けるようになっていく。月の光すら届かなくなり、俺達は知らず、近くにいるものの服を握り合いながらお互いが立てる息や衣擦れの音だけを頼りにして進む。仙蔵はまだ止まらないし、伊作も見つからない。
「……なぁ。おい、仙蔵。あまり深くまで行くと帰り道が分からなくなるぞ」
沈黙を破ったのは、文次郎だった。微かに声が震えている。
「なんだよ。怖いのか?」
そう言う俺の声だって震えていた。
それに「うるせぇ、ただの注意だ」と返してくる文次郎の声はやはり弱々しく、今度は周りも俺達の事を咎めず、結局はまた重たい沈黙が流れるのだった。
どれぐらいそんな風にして歩き続けていたか。やがて、仙蔵が足を止める。
「ここなのか?」
仙蔵の直ぐ側には、古木がある。
ちょうど、子ども一人なら踞れそうな虚があった。
「……いないじゃないか」
先程の蛇が見せたのはこの木の筈だ。ここに伊作が身体を丸めている筈だった。然し、そこはただ黒々とした穴があるだけ。
こちらを振り返った仙蔵は、眉を潜めて、俺達を見回し、最後に鏡子を見る。俺達も、同じように、鏡子を見た。
「なかなか、面倒だこと」
鏡子が微かにそう呟く。重たげな黒髪が作る影の中で、その目がゆら、と、青く光った様に見えた。
どういう事だ。と、聞こうとした俺を「えっ」という小さな声が遮る。
長次だ。耳に手を当てて、難しげに顔をしかめている。
「どうした? 何か聞こえるのか?」
小平太が聞けば、長次は難しげな顔のままこくんと頷いた。
「子あやしの唄……かな?」
そう長次が言った途端、俺の耳にも微かに『それ』が聞こえ始めた。
……ねんねんねんころろ
ねんねのもりのからすのこぉは
なぁにがかなしゅうてなきさうろう
かかさこうてもかかさはおらで
かかさよばいてなきさうろう
ねんねんねんころろ……
柔らかく、耳を撫でるような声で、幼い子どもをあやす唄。
それが何処から聞こえてくるかと言えば、だ。
「……お、おい、鏡子」
唄が絶えず聞こえてくる木の虚へ、鏡子は何のためらいなく足を進め、奥へ奥へと入っていく。
見た目より奥行きがあるんだな。と思ったその瞬間。
葉擦れの音がした。
鏡子の身体ががくんと下へさがる。
脚が
腰が
背中が
肩が
何処かへと飲み込まれる、様に。
「鏡子!!!」
俺は、思わず駆け出し、木の虚に飛び込み、鏡子の腕を掴む。
今にして思えば、その時の俺の行動が、今後六年生に至るまでの俺と鏡子の関係を決定付けたのだ。
何処へとも知れぬ場所へと落ちていく鏡子に、自ら巻き込まれていった俺の耳には、葉擦れの音や、長次らが怒鳴る声よりも、あの優しげなあやし唄がはっきりと聞こえていたのだった。
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