咄、彼女について

□藍の手・其の四
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 風にそよぐ木の葉の様な、微かな動きで、然し、確かに鏡子は首を縦に振った。

 それだけの事で、俺が「ああ、もう大丈夫だ」という気分に何と無くなってしまったのは、一緒にいた周りの彼奴らが出した空気に乗せられたからなんだろうと思っている。
 鏡子は、当時から変わらない飄々として何を考えてるか読めずかつ何処か薄暗い雰囲気を纏って、だけど言ってしまえば、俺達と年の変わらない少女。まだこの頃は、小さな女の子でしかない。
 だというのに、この時は、暗い夜道で民家の明かりを見い出したかの様な安心感があった。鏡子は泰然と落ち着き払っていて、ともすれば俺達よりも一回りも歳上の様だった。それはこの世のあらゆる事を知っているかの様で、事実、鏡子は、この当時から、凡そこの世の現や常識と外れたものに対しては常に優位であるように、俺にはそう見えていた。

 鏡子の白い横顔がふいっと彼方を見た。

「……彼方の山を越えた先には、何があったかいな」

 そうぽつりと呟く。俺達も皆、鏡子が見る方向に目を向ける。彼方の山は、山の向こうは、確か、

「海、だよ。瀬戸内に出る筈」

 長次が答えた。

「おい! まさか、そんなところまで行ってるとか言い出さねぇよな!?」

 思わず詰め寄る俺を鏡子はきろんと見返した。

「あやぁ。落ち着けよう、留三郎……。で。それは、本当にあるんかい」
「何がだよ」
「山の向こうに、本当に海はあるんかいな?」
「なにを、言ってんだ……」

 鏡子の物言いは、ものを知らないから聞いているといった風でも無かった。何というのか、何やら難しげな質問を投げ掛けでもした様な、そんな神妙な雰囲気の鏡子から目を離して、俺は皆を見返す。

「……確かにあるぞ。前に課外授業で、見に行ったからな」

 文次郎が答えた。小平太や仙蔵、長次も頷く。そう、確かに、あの山を越えた先には海がある筈だ。

「見に行った。見た。から、ある か……じゃあ、今もそれは、そこにあるんかいな」

 鏡子は静かに首を傾げながら、囁くような声で言う。
 皆は、そして多分俺も、怪訝な表情で鏡子を見る。

「当たり前じゃねぇか」
「こう考える事はできないかい。文次郎達が見た一瞬にのみ、そこは海であったと。今見ていないこの時に、それが本当にあるかなんて誰も知る事なんざできない。海は無いかもしれない。海では無くてそこは一面の枯野かもしれない」
「有り得ねぇよ」

 文次郎は鼻で笑った。

「そうかねぇ。見ているものが確実にあるかどうかなんて、誰もが同じ様に見えているなんて、だぁれも、分からんのじゃないかと、私は思うんだが」

 俺は、笑えなかった。
 鏡子が軽い口調で言ったその言葉の意味が、何と無く分かってしまったというのか、ふと足元が覚束なくなる様な不安を微かに感じたからだ。

「その事と、伊作がいなくなった事と、何の関係があるんだよ」

 何もかもが、定まった形を無くし、崩れて溶けて無為となっていく様な、そんな言い様の無い不安を振り払う様に、俺は再び、鏡子に詰め寄った。

「……あるっちゃあ、あるし、無いっちゃあ、無いね」

 鏡子は、そう尚も軽やかな声で言う。

「失せ物も探し人も、ただ見えていないから、そこに無いだけ。場所や時なんてのに捕らわれなければ、案外簡単に見つかるってぇ考え方もできるわな。既にあるんだと信じれんならばそれは無くなった事にすらならないのかもしれない。と、な。ふと思っただけさ。物事ってのは、元からぜぇんぶ、あるし、同時にぜぇんぶ、無いんじゃねぇかと」
「何の話だ」

 聞くだけで頭が痛くなりそうなつらつらと長い独り言じみたそれを苛つきを隠さず遮れば、鏡子はまだ話し足り無かったのか、ちょんと唇を尖らせる。

「……全く、留三郎はものを知らないねぇ」
「知らなくて構わねぇわ。つぅか、訳の分からん事をつらつら言ってねぇで、伊作は? 何か策はあんのかよ」
「即物的に素直だねぇ、留三郎はぁ」

 まあ、そこが好きだけどね。

 と、俺にしか聞こえない様な、小さな声で鏡子は呟き、ふいっと風がそよぐような動きで、仙蔵の元へと行く。

「……い、意味わかんねぇ」

 不意をつかれた俺の返しは、何とも情けない程に弱々しく、鏡子はほんの一瞬、振り返って、きゅうっと目を細めるのだった。
 ああ、ちくしょう。また馬鹿にしてやがる。と、腹立たしい反面、向けられた一瞬の笑みは妙に優しげで、俺は腹の底から沸いてくる落ち着かない感じを持て余して、地面に転がる石なんかを意味無く蹴飛ばしたりなどするのだった。

 転がった石は闇夜に消えていった。
 俺は顔をしかめながら、鏡子を見る。

 鏡子の目当ては、恐らく、仙蔵の足許にいるあれ(・・)だろう。

 何が起きているのか分かってないらしい、ひたすらに怪訝な顔をした仙蔵の前に、鏡子は静かに膝を折るのだった。

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