咄、彼女について

□藍の手・其の三
1ページ/2ページ


 ふと、立ち止まり、辺りに目を配る。

 伊作がいなくなったと聞いて、思わず勢いのままに走り出してしまったけれど、本当にそれは勢いだけで、探すあてなんて当然全く無い。
 一先ず先程までの実習の道程を遡ってみることに思い至れど、もう日は落ちようとしていて、木立の間はぞっとする程に暗かった。気持ちは逸るが、その迫り来る様な夕闇や、風にざわつく梢の音は、まだ一年坊主だった俺の息巻きをしょんと萎ませるには充分で、何とかしてやらねばという思いは徐々に不安に押し潰されていく。

 そんな自分を情けないと叱咤しながら走り続けるが、ふつふつと膨れ上がる不安は足を縺れさせ、程無くして、木の根に足を引っ掛けた俺は盛大に転けてしまった。

「くそっ……!」

 なけなしの気概までぺしゃんこに潰されそうで、俺はもがくように立ち上がる。顔を上げて見た宵の森は、ただ暗いというだけで全く違う、知らない場所の様で、何やらこの道が本当に実習の道程であったのかもあやふやになってきた。突っ立っているだけなのに、息がどんどん早くなる。
 もはや恐慌状態寸前だったのだろう俺は、然し、遠くから呼ばう声がした事で我に返った。

ーーおぉ……い……おぉおい、おぉーい……

 伊作の、声に聞こえた。

 ああ、良かった。見つかったじゃないか。

 と、伊作こそ不安であったろうに、その途切れ途切れに呼ばう声に安堵しきった俺は、それが聞こえる方向、木立の中へと足を踏み込もうとした。

「おい」

 のを、肩を掴む手に止められた。
 視界の端に突然現れた薄闇に光る様な白い手に、俺は心の臓が止まる程に驚き、まるで水を浴びせられた猫の様な情けなくも甲高い叫び声を上げながら飛び退いて地面に転がるのだった。

「ふぎゃあああああああっ!」

 動揺にチカチカとする前後不覚の視界に、辛うじて見えたのは、胡乱な雰囲気を放つ白い面輪と、夜に溶けそうな黒い髪。

「…………あやぁ、落ちつけよぅ」

 独特の感嘆符。
 下坂部鏡子が俺を見下ろしていた。

「なっ、なななっ、なんでいるんだよ! このド阿呆!!」

 恐怖と羞恥に腹が寒いやら顔が熱いやら大忙しの俺は、地面に尻餅を着きながらも鏡子を怒鳴り付ける。

「いちゃ悪いかね。そっちこそ、実習は終わったってのに、何だって山ん中に戻ろうとするんだか」
「ま、まさか、追いかけて来たのかよ」

 俺の憶測は、恐らく当たっていたのだと思うのだが、鏡子はそれには何も答えず、ただ何時ものふにゃっとした笑みだけを浮かべて俺に向かって手を差し伸べた。
 その手を無視して、思いっきり顔をしかめて立ち上がる。鏡子は然して気にする風でも無く、何のつもりか、俺の袖の端ををつんと摘まんだ。

「何だよ。離せ」

 腕を振れば指は一旦離れるが、今度は手首を掴んできた。再び振るが、離れない。

「離せってば。伊作んとこ行かねえと」
「何処か見当はついてんのかよぅ」
「声が聞こえたんだ。きっとあっちだ」
「声」

 鏡子が静かに目を瞬いた。
 重たげな前髪が影を作っていて、その奥から妙にゆらゆらと青く光る様に見える目が、俺を見て、それから、俺が指差した方を見る。

 ……おーい。

 と、また声が聞こえた。

「ほら、聞こえたろ」
「…………あやぁ」

 俺の手首を掴む鏡子の指に微かに力がこもる。

「伊作、の声に聞こえるかね」

 白い唇が、息を吐きながらそう言った。

……い、おぉーい、おぉい、おー……い、おぉーい……

 声はその間もずっと聞こえ続けていた。

 ああ、あんなに何度もずっと呼んでいるんだ。早く行かないと、早く、早く。

 踵を返そうとすれば、軽く引く手に止められる。

「……留三郎。これは、本当に……伊作の声かい」

 俺の手首をきつく握って、鏡子が聞く。

 何故か上手く頭に入って来なかったその言葉。煩わしいと思いながら、その意味がじわりと胸に染みを作る様に通じたその瞬間だった。ふと、こめかみに鈍い痛みが走る。同時に、ぞわりと腹の底から嫌な寒気が沸き上がった。

 そうだ。聞こえてきているこれは、伊作の声なんかじゃない。



 ……おぉおい、おぉおい、おおぉおぉぉぉおい、おぉぉぉぉおぉおぉぉい、ぅおおおぉおぉおぉおぉいおぉおぉおぉおぅおぉおおおおおおおおぉいおおおぉぉおおおおおおおおおおおおおおおいいいいいいおおおいいおお、ぅぅうううおおおおおおおおおおおおおおいいいいいいい……

 呻き声の様な、大量の羽虫の羽音の様な、震えた、嫌に湿った声は、俺の直ぐ背後で聞こえる。
 俺は、鏡子の顔を見た。
 鏡子はぎっと目を見開いて俺の肩口に視線を注いでいる、唇をにやあっと不自然に釣り上げ、蒼白な頬の上、瞬きもしない白い眼に揺れる黒目は先程よりもゆらゆらと青く光っている様に見える。
 正直に言って、俺はこの時、背後の声よりも目の前の鏡子の表情の方が余程恐ろしかった。故に、それから目を離そうとしたのだが、襟を掴んで引いてきた鏡子の手に遮られる。

「振り向くんじゃあない。気付いてない振りをしな」

 別に振り向こうとは思っていない。お前の顔が怖すぎるんだ。
 と、俺はそんな事を言おうとしたのだが、何故か口からは音は出ず、ぱくぱくと魚のそれみたいに動くだけだった。背後の声は、うわんうわんとうねりを帯びてあまりに煩く、耳が痛くなりそうだ。それで気付いた。俺の声が出ていない訳じゃない。この背後からの呻きの様な呼び声に掻き消されてしまっているのだ。

「じっとしておきよ」

 だのに、不思議と鏡子の声は矢鱈とはっきり聞こえる。

 どれくらい、そうしていたか。やがて、襟首を掴んでいる鏡子の手が、不意に離れて俺の肩口に伸ばされた。何をしているのか、横目で見た限り、指を折り曲げている、弾指の形をしていた。
 一瞬の間をおいて、ごく小さな風が頬を撫で、ぴしっという微かな音が耳を掠めた。鏡子が、指を弾いたのだ。

 その途端。本当に、その途端に、声が止んだ。
 余りに唐突に、ぶつりと途切れる様に静寂が訪れた。

「じゃ、行こうか」 

 呆けている俺の手を引く、鏡子の声が無ければ、俺は耳が聞こえなくなったと勘違いしていたかもしれない。

「……さっきのは、何だったんだ」
「なんちゃあないさ」

 鏡子の応えは、全く答えになっていない。

「ありゃあ、ただ、呼ぶだけのものだ。だけど、決してあれに返事はしちゃいけねぇ。姿が無い声には応えぬ方が無難だよ。良く覚えておきな、留三郎」

 続く説明も良く分からなかった。ただ、先程の鏡子の顔は、凡そそんな他愛無いものに向ける表情ではなかった様に思った。
 だが、どうせ追及しても分かる答えは返ってこないだろうと、俺はそれ以上は聞くのを諦めて、鏡子と共に歩き出す。
 あんな妙な目にあった後なのに、鏡子はあまりに怪し過ぎるのに、先程までの不安は消え去り、その道連れを幾分か頼もしく感じてしまうのが何やら悔しいのだった。

.
次へ
前の章へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ