咄、彼女について

□藍の手・其の一
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 皆とずっと走っていた筈なんだよ。
 顔……? そう言われても、僕、此処に来たばかりなんだから、全員の顔なんて分からないよ。でもとにかく皆、そう、同じ制服を着た子達が僕の前や後ろや横を走っていて、身体が凄く軽くて、ずうっと、走っていられそうだったんだよ。



「気持ちよかったんだけどなぁ」

 と、善法寺伊作はほにゃほにゃとした長閑な笑みを着けて、つい先程に己が巻き込まれていた奇妙な事態について語るのだった。
 それを聞いた我々の反応は様々で、文次郎等は、変な冗談を聞いたかの様なしかめっ面であったし、ろ組の二人は妙に得心した様に顔を見合せ何度も頷いていたし、そんな彼等に見舞われていた食満留三郎は、呆れた様に顔を歪めながらも、「お前、それ化かされてんだよ」と、事も無げに言うのだった。
 文次郎は子どもらしからぬ深々とした溜め息を吐いて立ち上がる。

「おい、仙蔵。もう良いだろう。俺達は帰るぞ」

 保健室で休んでいる留三郎を見舞いに行くと言い出した伊作に、着いていくといったろ組の二人に、更に着いてきた私と文次郎、という構図であった。殆ど初めてまともに話をした奴等ばかりの中で、文次郎の言った通りに別段の用事は無かったし、私が言った通りに、それは行きずりの、何と無く流されたままの行動だった。
 とはいえ、このままただ立ち去るというのも、何と無くつまらぬ様な気もした。私は、ちらりと目を動かして鏡子を見る。
 あれほど探しても見つからなかった伊作を、奇妙な方法であっさりと見つけ出した彼女の、白い横顔は、布団を畳む留三郎を見詰めていた。

「鏡子、」

 何と無く、これも何と無くだ。声を掛けてみれば、ほんの少しの間をおいて私を見る。

「お前はどうする?」

 鏡子は、ゆる、と首を傾げる。何処か気だるそうなその仕草は、凡そ齢十かそこらの少女に似つかわしい筈の愛らしさからは程遠く、此方の腹の底を少しざわりとさせる様なものがあった。

「そうだね。留三郎も元気そうだったし。私も帰ろうか」
「おう、帰れ帰れ」

 顎を突き出すように、意地悪気な物言いをした留三郎に対し、鏡子は笑みを返した。解ける様な柔らかなそれを浮かべた横顔は、立ち上がる為に俯いた事で被さる前髪に直ぐ様隠されてしまった。留三郎は伊作に、夕食は長屋で取る云々と呑気に説明している。たった今、鏡子の優しげな笑みを見たのは、私だけなのだろうか。と、ぼんやりと思った。

「私達も帰るぞ。またな! いさっくんに留三郎、あと、仙ちゃんともんじ、鏡子」
「い、いさっくん?」
「ちゃん……?」
「もんじ?」
「俺だけ普通かよ」
「あや。私もだよ、留三郎」

 面食らっている私達を他所に、小平太はにかっと豪快な笑みを浮かべて元気良く保健室を立ち去っていく。

「じゃあ、ね。えっと……皆、組は違うけど、良かったら、小平太とも僕とも、これから仲良くしてくれると嬉しいな」

 そう、当時はまだ浮かべることが出来たにこやかな表情をつけて長次が言う。文次郎は鼻をすんと鳴らしながら曖昧に頷き、私もまた似たり寄ったりで首を振る、留三郎は「おう」と力強く頷いて、伊作は嬉しげに顔を綻ばせた。

「たった一日で、こんなに友達が出来て嬉しい」

 と、笑う伊作に、私達も何と無く顔も空気も緩ませて、それが気恥ずかしいのか文次郎はさっさと部屋を出ていく。それに続くように、一人、また一人と、新野先生に挨拶をしながら部屋を出ていき、解散となったのだった。

 ぞろぞろと忍たま長屋へと帰る我々とは、別の方向へ、要はくのたまの長屋がある方へと歩き出した鏡子の背中を何と無く見送る。影法師の様な後ろ姿だと思った。

「鏡子、またな」

 そう声を掛ければ、振り返ることも立ち止まることもなくただゆわんと軽く手が揺れる。田打ち桜の様な、白いそれ。然し、儚げではあるが花弁の可憐さというよりも何処か薄暗い雰囲気が先立っていた。ふと視線を感じて振り返れば、文次郎が、口を半開きに目を眇た何とも珍妙な表情で私を見ていた。

「なんだ、その顔は」
「……仙蔵、お前。くノ一教室の奴なんかと何時知り合ったんだ」
「なんか。とは、随分な言い種だな」
「そりゃそうだろ。おなごなんてのは油断ならねぇんだぞ」

 苦いものを口に含んだ様な顔をした文次郎は、ふとぶるるっと身震いをした。入学して直ぐの頃に喰らわされたくノ一教室の『歓迎』は私自身、思い出しても背筋が冷える。今にして思えば、その『歓迎』は、忍を志す者として、三禁が一つである色に易々と心を許さぬ様という教育の一貫だったのかもしれないが。
 然し、はて、件のくノ一教室訪問の際に鏡子はいたろうか。いたようないなかったような……。あの快活で愛らしく、故に恐れを知らぬ様な少女達と彼女がどうにも結び付かず、私は少し首を捻る。

「……文次郎、」
「なんだよ」
「お前、猫や雀を見た時に、それが雌かどうかとかを気にするか?」
「…………はあ?」

 文次郎は訳が分からないと言いたげな顔をしていたし、私も今のは上手く言い表せていないと思ったが、つまりは、どうやら私は、鏡子をくノ一教室だとかおなごだという括りで見ていないらしいということだ。

「鏡子は、鏡子なんだろうな」

 自分で確かめる様に、そう呟く私を、文次郎は相も変わらず珍妙な表情で見ていた。

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