咄、彼女について
□ともがら・其の三
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湿った落ち葉が、足の裏で少し滑る。
その下の土も、水気を含んで柔らかい。
森の中を歩いていた。
昼時だと何と無く感じているのだが、辺りは墨をぼかした様な暗さで、何もかもが湿っていて、肌寒い。
ただ、一箇所、ほのかに暖かい所があり、それは、自分の片手であり、誰かと手を繋いでいるのであり、その誰かの手を引きながら俺は森の中を歩いていた。
ーーもうすぐ、もりをぬけるよーー
と、俺の声……今より少し拙く幼く聞こえた……が、聞こえた。自分に言い聞かせたのかもしれないし、手を繋いでいる誰かが、きっと心細いだろうと思ったのかもしれない。
誰かの手が、俺の手をぎゅっと握り返す。俺は、振り返って、その小さな手の持ち主を見ようとした。
そこで、目が覚めた。
「……むぅ、ん」
瞼を動かすと頭が鈍く痛い。唸りながらしょぼくれた目を瞬いて見た天井の板目は見慣れないもの。鼻を微かに突く薬草の匂い。身体は布団に包まれている。横を見れば、
「ああ、食満君。目が覚めましたか」
保健医の新野先生が此方を振り返り、穏やかな笑み。
俺は、保健室で寝かされていた。
「……俺、あの、」
何があったんだっけか。確か、そうだ……編入生の、伊作を、長屋に連れて行く所で……伊作が穴に落ちて……それから……。
瞬間、頭に、こめかみにまた鈍い痛みを感じて、俺は思わず顔をしかめて、そこを擦る。
真っ青な手。
門の前で、それから穴の中にも現れた。こめかみが痛むという事は、何か良くないものなのだろうけど。
あの時、追っ払えたと思ったのは気のせいだったのだ。悔しいと思ったし、まだ消えていないのだと嫌な焦燥感を覚えた。
「頭が痛みますか」
新野先生がそっと布団に近付いてきて、俺を覗き込む。俺は慌てて、こめかみから指を離した。
「あ、大丈夫です………………その、少しだけです」
あの優しい様で何処か鋭さのある目でじいっと見詰められ、ついつい痛い事を認めてしまった。
痛い。だけど、これは、病理のものとは訳が違う様な気がする。少し気まずい心持ちだ。
新野先生は俺の身体を静かに起こすと、首筋を指で圧したり、下瞼をそっと捲ったり、手首を握ったりなどして、うんうんと頷かれた。
「やはり、少し貧血を起こしていますね。水も足りていない様です」
そう言って、衝立の向こうから、鉄瓶と湯飲みを持ってこられた。
鉄瓶の中身を湯飲みに注いで、俺に差し出す。
「湯冷ましです。ゆっくり飲んでくださいね」
それを受け取った途端、今更に酷く喉が乾いていた事に気付いた。
ごくごくと中身を飲み干すと、「慌てないで」と、新野先生に苦笑混じりに咎められた。
そうして、二杯の湯冷ましを飲み終えて、少し落ち着いた俺の胸中に過った幾つかの疑問。
「……あの、俺、どれくらい此処にいましたか」
「朝に来てから、今はもう直ぐ申の刻ぐらいですね」
「えっ!」
そんなに。と、驚愕した。
同時に、新学期最初の授業を欠席してしまった事に思い至り、愕然として、また頭を抱えたくなる。
「お、俺と一緒にいた、その……伊作は」
続いての疑問は、伊作の事。あの後、伊作はどうしたのだろうか。
「編入生の、善法寺伊作君ですね。落とし穴に落ちたそうですが、大した怪我はしておりませんでしたよ。食満君の事をとても心配していましたから、きっとまたお見舞いに来るでしょう」
「長屋とか、教室とか、ちゃんと行けたんでしょうか、授業とか、」
俺の問いに、新野先生はくすりと笑われた。
「ええ、大丈夫ですよ。昼頃にも善法寺君が来たのですが、一年は組の皆、善法寺君を歓迎してくれたそうです。長屋にはろ組の中在家君が案内してくれたらしいですね」
「長次が……そうですか」
「おや、中在家君と知り合いでしたか」
「はい、友人です」
安堵する様な、少し釈然としない様な……そんな気分の中、次に過ったのは、気を失う直前の俺の頬を撫でた少し冷たい手。「あやぁ」というあの独特の声。
「新野先生」
「はい。なんでしょう」
「俺を此処に連れて来たのは……鏡子ですか」
つい、眉間に皺が寄っていた気がする。新野先生は、一瞬、怪訝そうに俺の顔を見て、それから「ええ、そうですね」と、頷かれた。
「鏡子さんは、付き添いで来たといった感じでしたが……君を運んできたのは、ろ組の七松君ですよ」
ろ組の七松。
あの、七松か。名前だけなら聞いたことがある。と、俺は少し驚いた。
ーー六年生となった今も共に学ぶ同輩達の中には、当時から組を越えて目立つのが何人かいた。
その内の一人、七松小平太。
天狗に鍛えられた牛若丸が如き学年で一番と噂される身体能力と、反してこれまた学年で一番と噂されるお粗末な座学の成績で有名で、良く笑うがそれと同じくらいに良く泣いて、然しそれをからかうと泣きながらぶん殴ってくる野蛮人だとも言われていた。
「……おや、噂をすれば」
新野先生が顔を向けた先、廊下が徐に騒がしい。
「お見舞いが来ましたよ。食満君」
そう、新野先生が微笑んだのが合図であったかの様に、保健室の戸が勢い良く開くのだった。
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