咄、彼女について

□ともがら・其の二
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 俺と仙蔵が座る席は、並びでは一番前の列で、教室の窓の直ぐ横だった。
 俺が座る場所から真っ直ぐ前を見ると、丁度、黒板の横の壁に貼られた薬草の絵図がぱっと目に入る。学園の周辺で取れる薬草とその効能を図示したそれを眺めながら、俺は胸中の算段を続けた。
 とはいえ、子どもの時分ではあったからそれは恐らく真剣見や集中には欠けて、直ぐに色んな想像や考えに逸れてはいただろうが、問題は、その時、俺が考えていた事では無く、俺が視界の端に動くものがあるのに気付いた事だ。

 何かゆっくりと揺れる様なものが、目の端に見えた。そちらには、仙蔵が座っている。
 なんだろうと、俺は仙蔵の方を見る。
 仙蔵は、先程まで読んでいた教科書を閉じて、窓の外を見ていた。窓からの陽光に照らされて、仙蔵の座る場所から影が俺の膝元まで伸びている。

 その影の中に、真っ白い蛇がいた。

 細かく並んだ鱗のひとつひとつを揺らしながら蠢いている濡れた様な質感をした細い身体。金色をした目。

「あ……」

 俺は然し、大きく叫ぶことも、大して驚く事も無かった。いや、一瞬は驚いたのだが、それは直ぐに凪いで流れていった。

「なんだ?」

 怪訝そうに此方を見る仙蔵。蛇はゆっくりゆっくり、仙蔵の影の中を這う。

「いや、何でもない」

 仙蔵が気付かない筈もない。という事は、この蛇は俺にしか見えていないらしい。
 特に驚く事では無かった。こんな風な、俺しか見えないものには昔から時々かち合って来た。
 大して何かの役に立つこともない。知らぬ存ぜぬでいればどんなものも何時かは消えていたから、それは陽炎や影の様なものと同じなのだ。あって無いようなもので、此方の気の迷いで済む話だ。

 俺にとっては、(ともがら)の影に踞る蛇なども、その程度のものだった。

 そうじゃない奴もいるという事や、そんな陽炎や影すらもまるごと呑み込むような奴がいる事も、俺は後に知るのだが、その時は、教室に入って来た先生へと意識は逸れて、影の内の白蛇はもう、気に止める事も無かったのだった。




 田植え休み明けに知り合った編入生が、偶さかにも、組が同じで、長屋の部屋も分け合う事になった経緯についてだ。

 事務室に、その編入生、善法寺伊作を連れていき諸々の手続きが済まされるのを、何と無く部屋の済みで眺めて待っていた。

「……善法寺伊作君。編入希望と……そちらの荷物は」

 事務の吉野先生が、伊作と、伊作の横に置かれた(おい)を見比べる。

「此方に来る以前に、世話になっておりました方に持たされました。僕の荷物が入っています」
「きみは、稚児童子……という訳では無さそうですね。あの寺は、尼寺だ」
「ええ、縁あって拾われ育てられましたが、何時までも世話になるには障りがありますので」
「それで、此方に来たと」
「はい、庵主様から文も預かっています。此方の大川平次渦正学園長先生へ宛てたものです」

 吉野先生と話す伊作の言葉遣いは大人びてしっかりとしていて、先程の何処かぼんやりとした印象とはまた違っていた。
 伊作が懐から出した文を預かった吉野先生は、また、伊作と笈を見比べる。

「一応、中身を確認しても構いませんか」
「はい。どうぞ」

 伊作が快く差し出した笈を、吉野先生が開く。俺も少し気になって身を乗り出した。

 一つずつ取り出された荷物は、金子の入った袋と、枯れ草の束と小さく畳まれた紙が幾つか、本が三冊、それから、小さな木彫りの観音蔵。

「薬草ですか、これは」

 吉野先生が、枯れ草の束を手に取れば、カサカサと乾いた音がする。
 伊作はにっこりと笑って頷いた。

「庵主様から、薬や医療の事を色々教わりました」
「……そうですか。きみは、保健委員会に入れそうですね」

 後から思えば、吉野先生の言葉はかなり運命的だったというか、俺も、そして恐らく吉野先生も、このにこやかな少年がその後六年生になるまで保健委員を勤める事になるとは思いもしなかった。

 その時、丁度、事務のおばちゃんが、当時俺の教科担任だった先生を事務室へ連れて来た。伊作は、俺と同じ組になるらしい。

「長屋の部屋は……ああ、留三郎。お前の部屋はまだ独り部屋だったな」

 そうして丁度良いとばかしに、俺と伊作は同室になったのである。
 俺としても、別段断る理由も無く、寧ろ、門前での一件から伊作には浅からぬ縁を勝手に感じていたので、その提案を喜んで受け入れたのである。

「改めてよろしくね。留三郎」
「ああ、よろしくな、伊作」

 そうして笑顔を交わす俺達を、先生方も微笑ましげに見ていた様に思う。

 じゃあ、早速部屋へと行こうかと、俺は伊作を長屋に案内する事にした。

「学園は競合地区って奴でな。罠とか落とし穴があるから注意して歩けよ」
「う、うん」
「まあ、今日は俺の後を着いて歩けば大丈夫だ。罠の印も教えてやるよ」
「ありがとう留三郎」
「同室になったんだからこれくらい当たり前だ」

 家では末の弟として扱われていた俺にとって、伊作の存在は同い年ながら何やら弟が出来たような、自分が少し大人になったような気分で、面映ゆい。

「もうすぐ着くからな」
「うん、ありがと……うわっ!?」
「伊作っ!?」

 張り切った気分でいた矢先に、伊作がまさかの、落とし穴に落ちた。
 罠を避けて歩いていた俺の後ろを着いてきていたのに、何故だ。

「大丈夫か!」

 慌てて、地面に空いた穴の中を覗き込む。伊作は穴の中でひっくり返っていたが、特に怪我をしている様子は無かった。
 罠の印は、見当たらない。置き忘れだろうか。

「う、うん……すまない」

 背中に背負った笈が穴に引っ掛かっているのか、伊作はひっくり返ったまま足をもだもだと揺らしている。

「いや……怪我が無いなら良いんだけどよ」
「ごめんよ、少し余所見をしてたみたいだ」
「直ぐ出してやるからな」

 穴に目一杯腕を伸ばして、漸く手を掴めるかといった感じだ。
 ひっくり返ったままの伊作もうんうんと唸りながら腕を伸ばす。

「ご、ごめんね。笈が引っ掛かってるみたいで……いうことを効かないや」
「ん、まあそうだろうな。気にすんな……」

 あと少しで、手を掴めそうだ。穴の縁に俺の爪が食い込む。
 その時、ふと、こめかみに鈍い痛みが走る。
 まさか、と、ぞわりと背筋が粟立つのを感じた。
 良くないものが来る。
 こんな所で、いきなり。

「……伊作。早く手を掴め!」
「う、うん」

 伊作が身を捩る。
 捩った身体の脇に、笈が見える。その笈の縁に、何かが伸びてきた。

 びくびくと引き釣った様に蠢く、何か。
 指だ。
 ただ、青い。
 真っ青な、指、手、爪。
 笈を引っ掻いている。
 俺の額から、どっと冷たい汗が吹き出た。
 痛い。
 頭が割れそうだ。

「……う……あ」
「留三郎……?」

 叫ぶのを、何とか堪える。
 堪えるが、代わりとばかりに吐き気が込み上げた。

 俺の背後に、誰か立ってはいないか。
 何か、いる。
 それが分かる。
 いや、気のせいだ。
 その何かが、俺の背中に、剥き出しの首に手を伸ばそうとしている。
 気のせいだ。
 見えない。筈だ。
 気のせいだ。
 俺は、見てない。
 見てない。

「……あ」

 ちり、と、首筋に尖った何かが触れた。

 途端、何か弾ける様な音がして、ああ、今のは手を打つ音だと、そう思った途端、視界が暗転する。

「留三郎!? 誰かっ、誰かいませんか!誰か……」

 遠退いていく意識の中で伊作の叫ぶ声が響く。
 一瞬の間、だったのか本当の所は分からないが、一瞬に思える間を置いて、俺の頬に、誰かの手が触れた。冷たい、その掌が誰のものか、何故か分かった。

「……あやぁ」

 その、独特の感嘆符。

 鏡子。

 と、俺はその冷たく柔らかい手と間の抜けた声の主を呼ぼうとしたが、喉からは掠れた息しか出ないのだった。
 

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