咄、彼女について

□ともがら・其の一
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 一年生の頃だ。

 季節は、確か、田植え休み明けの辺りだったと思う。

 家が農家という訳でも無く、また、当時から生家に対してそこまで思い入れ等も無い私は学園に居残っていた。
 然し、一年生といえば、まだまだ家が恋しい時期である。そこに学園に入学してからの最初の長期休暇だ。私以外の同学年は皆、実家に帰っていた。
 身寄りの無いものですら、世話になった寺へ顔を見せに行ったり、世話好きの先生の御実家へと連れられて帰ったり……私もまた、そういった先生方や学友に共に来ないかと誘われたが、断った。
 一人でいることは苦にならなかったし、寧ろ気楽だと思った。最初の数日は居残る私を気遣ってか、先生方や先輩方から良く声を掛けてもらい、時に勉学を見て頂いたり、鍛練を着けて頂けたりもしたから、願っても無い有難い休日だとも思っていた。

 とはいえ、そんな風に多少ひねていようがまだ子どもの時分であったから、やがて同学年の遊び相手がいない事に退屈を覚えてくる。
 田植え休みの終わりの時期には、先生方も先輩方も皆休み明けの準備の方に気が向けられて、私はこの数日間は一人で勉強をし、一人で鍛練をして、一人で息抜きをしていた。直ぐに飽きてきた。
 復習も休み明けの予習も全て済ましてしまい、退屈を持て余した私は、その日は学園内を特に目的も無く彷徨いていた。

 そう、そんな時に、私は彼女と出会ったのである。

 特に宛もなくぶらぶらと学園内を歩いて、少し汗ばんできたから、先日に学園の裏森で見つけた池にでも行こうかと、ぼんやり思った。
 そうして、ぶらぶらと惰性の様な歩き方で裏森を目指し、木立を抜け、池の畔が見えてきた所で、そこに先客がいるのに気付いた私ははたと足を止める。

 桃色の制服。背中に掛かる少しうねった長い黒髪。くノ一教室の生徒だ。
 くのたまは、関わって碌な事にならないというか、一杯食わされてしまう事が多い相手である。私はほんの一瞬、引き返そうかとも思った。思った、だけである。
 結局は、私はそのまま足を前に進めていくのだった。
 そのくのたまの後ろ姿が、自分と年頃が近い様に見えて、少し声を掛けるぐらいならばと、つい人恋しさに任せてしまったのもあるし、そんな年の近い少女相手に逃げるみたいなのは癪だと思ったのもある。

「小魚でもいるのか?」

 池の水面を見ているような風情であったから、そう声を掛けた。
 そのくのたまが、ゆっくりと此方に顔を向ける。
 見目の麗しい者が多いくノ一教室の御多分に漏れず、白い面差しに黒髪が良く似合う。ただ少しその髪の色は重たげにも見えたし、垂れがちの眼は何処か胡乱な、腹積もりの分かりにくい雰囲気があった。
 綺麗と言えなくもないが、それより先に引っ掛かるものを感じてしまうような容姿だ。

 彼女は、突然現れた見知らぬ私に驚く事も無く、忍たまと見るや意地の悪さや悪戯心を見せ出すような雰囲気もなく、凪いだ静かな表情で私を見る。
 風が少しそよいだだけ、の様な。事実、その時、風が一陣吹いて、巻き上げられた彼女の黒髪のその下の額がぎょっとする程に白かったのを、今でも覚えている。

「いんや。待ち合わせがあんのさ」

 喋り方があまり似合っていないと思った。

「逢い引きか。だったら私は邪魔になるな」
「あやぁ。耳年増だこと」
「そっちも年の頃は変わらんだろう」
「そりゃ違いねぇな。んな色っぽい話でも無いから、別に邪魔にはならんよ」

 交わされる言葉は互いに滑らかで、まるで良く見知った相手だったかの様な、そんな気分になった私は気がつけば彼女の隣で腰を下ろしている。

「じゃあ、一体、誰と待ち合わせなんだ?」
「小舟が通るのさ」
「小舟」

 私は思わず顔を上げて、ぐるりと辺りを見渡す。池の畔は四方を木立に囲まれている。

「小舟、など、何処から来るんだ」
「来るさ」

 川に繋がっている訳でもないこの場所に、小舟なんてものがやって来る筈もないだろうに、彼女ははっきりと短く来ると答えた。
 まさか、その待ち合わせ相手の某が陸路を小舟を引きつつやって来るとでも言うのだろうか。それはそれで、酔狂な話だ。
 そんな事を思っていたら、隣で彼女が、少しだけ水面に身を乗り出した。

「ほら、来た」

 そう呟く白い横顔から、私は彼女が見つめている方向へ、同じように目を移す。

「あ」

 と、開いた口から間抜けな音が溢れた。

 少し遠くの水面に、揺らめいている淡い白色。
 上に目を移しても、その白い影を水面に映しているものは何も無い。
 ゆっくりと此方へ近付いてくるそれは、確かに、小舟だった。逆さまに、見えている。
 それは、水面に映る、白い舟だ。
 然し、何度上に目を向けても、その船の実体は皆目見えない。
 やがて、私達が座る岸辺近くまでやって来た水面の小舟は静かに止まる。
 思わず喉がごくりと上下した。
 船には、誰か乗っている。
 その誰かが小舟の縁から此方を見上げ……いや、その誰かにとっては船から水面を見下ろしていた、と言えるのかもしれない。
 とにかく、此方を見てきた。
 それは、恐らくは男だった。
 武家の様な着物を着ている。
その見目形は揺れる水面に判然としないが、口許が微かに蠢いて、何事かを言っているのは分かった。
 
 隣から衣擦れの音がして私の肩は大袈裟に跳ね上がる。
 見れば、彼女の白い手が徐に、水面に何かを放った。
 その何かは水の中へ沈んでいく。
 男が手を伸ばし、その何かを掴んだ様に見えた。
 男の口許が、また蠢いて、それから船はゆっくりとまた動き出した。
 前へと進む小舟の影はそのまま私達の座る岸辺にぶつかりそうになり、私はまた「あっ」と声を上げてしまったが、水面の小舟はひっくり返る事も、揺れることすらも無く、すうっと静かに進んでいき岸辺に隠れていった。
 まるで、私達の足許を進んでいったかの様だ。
 私は、思わず立ち上がる。
 彼女は座ったままだった。
 辺りを見渡したが、そこには、周りの木立を映しているだけの、何の変哲もない小さな池があるのみ。

「あれはなんだ」
「小舟さ」
「なんで影だけしか無かったんだ」
「そりゃあ、此方に小舟がある訳じゃないからね」
「一体何処から来たんだ」
「はて」
「あの男は誰だ」
「さあね」
「お前、さっき何か放ったな。何を放ったんだ。待ち合わせの相手はあの男だったのか。涼しい顔をしているが何時もこんなものを見ているのか」

 今まで見たことも無い様な不可思議に、私はすっかり興に乗ってしまっていた。まるで御伽草子の中に入ってしまった様で、先程まで持て余していた退屈などはもう何処ぞへと消え去っていた。

「あやぁ。質問の多い奴だなぁ」

 彼女は俯きがちに溜め息の様な、はふっ、という音を微かに口の端から溢す、もしかしたら、笑っていたのかもしれない。

「茶器の欠片さね。この間拾ったんだが、さっきのお武家様の大切なものだったそうで、お返ししたのさ。とうとう欠片が見つからなかったのが余程心残りだったらしくてね、しつこいったら無くて」

 顔を上げた彼女の、垂れがちな目が私を見上げる。
 私は、じっと彼女を見下ろす。

「心残り、とはどういう事だ」
「また質問か……あの方は幼い頃に父親の茶器をうっかり欠けさせてしまったんだとさ。あれを拾ってから、あの方が毎晩毎晩やって来ては欠片が無いとそればっかり繰り返して嘆くものだから……ただあの方はもう人の世とは擦れてしまった所にいたから、普通にはいどうぞという訳にもいかなくてね。待ち合わせて返すしか無かった」

 面倒臭げな声色でつらつらとそう語った彼女は、ぴたりと口を閉じる。

 私はまた、その場に腰を下ろす。
 彼女の白い横顔は、何処か憮然として、風に揺れて光る水面を睨むように見ている。

「私は、一年い組の立花仙蔵だ」

 目だけが、きろんと、私を見た。

「お前は、なんというんだ」
「……本当に、質問が多いね」

 顔も此方に向けられた。
 呆れたような、苦笑を浮かべたその色の薄い唇が、そっと囁く様に名乗った。

 そう。
 これが、私と、彼女、下坂部鏡子の出会いである。

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