咄、彼女について

□紙魚・其の四
1ページ/2ページ


 月は、夜空の一番高いところから少し傾いた所にある。朧気に光るそれを、鐘楼の陰から顔を出すみたいにして見上げた俺は、思わず出てきた欠伸を噛み殺した。
 すると、隣からも、はふと、微かな欠伸が聞こえる。

「夜は忍の時間と言うけれど、やっぱり眠いな」

 俺の欠伸が移った長次がそう囁いて、俺はそれに頷きを返す。
 そう。長次の言うように、夜は忍の時間。今でこそ夜通し実習や鍛練など当たり前の様にこなせるようになったが、当時は入学してそんな日も経っていない一年坊主だ。他の同学年達は布団でぐっすり眠っているだろう時間に、何故二人して長屋にもおらずそんな所にいたのかといえば、

「鏡子ちゃん、まだかな」

 長次がそう呟いた。のを、聞いた俺の口は勝手にへの字に曲がる。

「あんなのいなくたってどうとでもならぁ」
「でも三人で行く約束だろう」

 そう、俺と、長次と、鏡子は、この夜、図書室に忍び込むつもりだった。
 それは、昼間の月見亭にて、長次が語った。『喋る虫』に端を発し、他愛無い子どもの好奇心を元にした、ちょっとした冒険だった。

 そう。始まりは、昼間の、月見亭での事である。鏡子から頁に穴の空いている本を返された長次が、それを『喋る虫』の仕業だと言ったのである。
 長次曰く、図書室にて、時折しゃくしゃくと何かを食む様な音と脈略の無い様な事を呟く声を聞くのだという。
 更に言えば、その脈略の無い様な呟き声というのが、どうやら本の一節であるそうで、その呟いた声の部分が尽く虫食いになるそうだ。

「だから、きっとその紙魚というのが文字を食いながら喋っているのだと思う」

 虫の名前は、紙の魚と書いてしみと読むそうだ。虫なのに魚とは、どんな姿をしてるんだと、俺がそう言えば、長次は大きく頷きながら自分もそれが気になってるんだと言った。
 俺は、その魚と名の着く虫の姿を想像しながら、そういえば、と、思い出したままに口を開いた。

「そういう音なら、俺も聞いたかも」
「本当か」
「ああ、何か擦り合わせるみたいな、変な音……あ、後、何かでかい影みたいなんも、見た」

 自分から話し出しておいて、少し顔が熱くなるのを感じる。自分が見えてる、聞いている変なものについて話すのはやはり慣れなかった。それらは、知らぬふりをしなくてはと自分に言い聞かせてきたものだ。
 ただ、学園に入学してそれから後の俺は、最高学年になる今に至るまで、鏡子を通して、何度も己が見るものと聞くものに向き合うことになるのであるが、それは、また別の話である。
 とにかく、その時は、自分が話した事を長次にどう思われるのか、そればかりが気にかかっていた。
 だから、俺の話を聞いた長次が、「やっぱりそうか」と、納得した様に、そして何処か嬉しそうに笑った事に、酷く安堵したのを、今でも良く覚えてる。

「それじゃあ、見に行ってみようや」

 と、そこで鏡子が提案したのである。

「見に行くって、喋る虫をか」
「図書室だからなあ。騒いだりもできないし、何時現れるか分からないし」
「夜に行けば良い、忍び込むのさ」

 鏡子の垂れ目がちな眼が、きゅっと細くなり、悪戯っ子めいた表情になる。一抹の不気味さはありはしたが、無邪気な少女らしい表情であった事は否めなかった。事実、その時、俺はその表情を見てほんの僅かに警戒心が薄れた様に思う。
 意外と、普通の、俺達と変わらない奴なんじゃねえか。と、そう思った。

「そういう手合いは夜に出ると相場が決まってらあな。暗さというのは、場所を作るんだ」

 鏡子が付け足すようにそう呟いた。それの醸し出す不穏な雰囲気のせいで、また少し不気味さの方が色濃くなりはしたが、当時はそんな事よりも『夜中に忍び込む』という行為に何やらわくわくとしたものを感じたのだった。
 それは、長次も同じだったのだと思う。そのまま話はトントン拍子に進み、その日の晩に鐘楼の陰にて待ち合わせと相成ったのである。

 そうして、話は最初へと戻る。
 長次と俺とは、忍たま長屋から供だってこっそりと鐘楼までやって来た訳だが、鏡子がまだ来ていない。
 この鐘楼の陰というのは、鏡子の指定であった。月の光も届かないこの場所は、夜の中で更に暗い。身を隠すのには最適なのかもしれなかったが、少々心細い気分にはなる。

「約束つったて、待ってる間に機会を逃したら意味ねえじゃんか」

 俺が尚もそうごねたら、長次は苦笑いを浮かべて、

「ああ、でももうすぐそこまで来てるよ」

 と、小さな声で言った。
 その次の瞬間だ。

「よお」

 と、背後から俺の肩を軽く叩いた手に、不覚にもびくりと飛び上がってしまった。『すぐそこまで』が過ぎるというものだ。全く気付けなかった事も悔しかった。

「おっ、おせえよ!」
「すまんすまん。然し、静かにな」

 しいっと、口許に指を持っていく鏡子は俺達と同じ様に寝巻きに羽織を着込んでいて、肩の下で結わえた髪はどうやら洗い髪だった。呑気に風呂に入ってから来たのか、と、呆れてしまった。

「くのたま長屋は終い湯が早いんだよぅ。入りっぱぐれたくねえもん」

 と、鏡子は拗ねた様な声色で言う。
 思考を読まれた。いや、俺がきっとあからさまに顔をしかめていたのだろう。

「んじゃ、行こうか」

 鏡子が踵を返して、鐘楼の陰から出ていくのに、俺と長次ものろのろと続くのだった。

.
次へ
前の章へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ