咄、彼女について

□紙魚・其の三
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「お待たせ。行こうか」

 図書室前の廊下、壁に凭れていた俺はきっと酷く不貞腐れた顔をしていたろうに、図書室から出て来た長次はにこやかにそう言う。
 俺は、笑えず、ただむっつりと首を振った。つい先程、図書室で見てしまった影に驚き声まで上げてしまった俺に、長次は、当番が終わるまで少し待っていて欲しいと言ったのだった。

「先輩からお菓子を頂いたから何処かで食べよう」

 そう、小さな包みを見せて笑う長次に、俺はまたむっつりと頷く。長次は笑顔を、困った様な苦笑いに変えた。
 長次に着いて歩いて、辿り着いたのは学園の片隅にある月見亭だった。
 普段なら上級生らが寛いでいたり、何事かを話し込んでいる事が多いので、一年生の自分が近付くのは何と無く憚るものがあったのだが、その日は偶々誰もおらず、また長次が、何も気にしてない風に軽やかな足取りでその床に腰を下ろすのであるから、俺もまた少し遅れてその板目の艶々としたそこへ恐る恐る座り込むのだった。

「ほら、留三郎も」

 長次は包みを広げて出て来た飴菓子を口に放り込んだ。差し出されたそれ、俺は黙って口に入れる。中に細かい豆が入っているそれは香ばしくて、舌にごろごろと当たるのが少しこそばいような気がした。
 長次も、俺も、そのまま暫く無言でその甘くて香ばしい菓子を口に転がしていた。
 俺は、長次を見る。何を言い出すのか、身構えてもいた。

「さっき、図書室で、」

 長次は、そこで言葉を切り、また困った様な苦笑いを浮かべた。

「……睨むなよ」

 そう言われて、気付いた。元々が目付きの悪い方だったけれど、身構える余りについつい睨んでしまっていたらしい。

「…………悪い」
「うん、別に構わないけれど…………留三郎」
「お、おう」

 目線を落として膝を見れば、長次はそんな俺を覗き込むようにしてきた。
 ぎょっとして、少し仰け反る俺なんて長次はまるで気にしてない風に、じっと眉根を寄せて真剣そうな難しげな顔をしている。

「……図書室で、何か、聞いたか」

 囁く様な声でそう聞いてきた。
 俺は息を呑む。
 どう答えるべきか、悩んで、迷って、ずりずりと後退りすれば背中に壁が当たる。

「……お、お前は、どうなんだよ」 

 質問に、質問を返した。
 長次は、少し間をおいて、それから、ふっと息を吐きながら笑みを浮かべる。またも苦笑めいたそれは、然し、何処か安心しているかの様な和らいだ表情に見えた。

「何の話か、分からない訳じゃないんだな」
「うっ!」

 ぎょっとした弾みに後頭部がごつりと壁に当たった。
 またやってしまった。これは、この間の学園長先生とのやり取りと一緒じゃないか。
 けれども長次は、俺の後悔や動揺を然して気にする風でもなく、その何処か安心した様な笑みを浮かべたまま、自分の片耳をちょんと引っ張った。

「俺、どうやら耳が聞こえ過ぎるらしいんだ」

 大事な秘密を告げるように、そう囁いた長次が小さな小さな声で話し出したのは、『聞こえ過ぎる』音の話。その話に、壁に着いていた俺の背中は何時の間にか前のめりになっていた。

「…………さっきの留三郎を見て、それで俺、留三郎も、そうなんじゃないかなって、思ったんだ」

 俺が前のめりになるのに合わせるかの様に、長次の声は小さく、しどもどとしていった。
 そうして全部、喋り終えて、微かに息を吐いて、俺をじっと見る。
 探るようなその視線から、一瞬目を逸らしそうになりながらも、俺は、それに耐えて、ただ一つ、頷いた。

「そうか」

 長次も、そう一言、頷きを返した。
 それからにこりと笑う。
 今ではもう滅多に見れなくなった、しかもたまに見る時はすべからく怒りの表現である長次の笑顔。その時はただ単純に嬉しそうなそれだった。
 だから、俺もそれに、吊られて笑う。長次の笑顔に、その時の俺は、なんだか秘密を共有した様な、そんな楽しさや嬉しさを感じた。
 けれど、俺のその少しばかし浮上しかけた気持ちも笑顔も、次の長次の言葉で一瞬に引きつる事になる。

「……同じ様な奴に会うのは、これで二人目だ」

 二人目。
 俺の前に長次が出会っている某、一人目が誰なのか、妙な確信があった。
 
「…………下坂部鏡子?」
「うん」

 頷く長次に、益々俺の顔は引きつる。

「やっぱり知り合いだったんだな……ん、」

 そんな俺を他所に、長次はふと顔を上げて立ち上がり、月見亭の欄干に手をついで身を乗り出すようにした。

「噂をすればだ。おーい、鏡子ちゃん」
「ちゃんは止めておくれや。ほんに良く気付くなお前は」

 知らず、どういう類いかも分からぬ溜息が、俺の口から溢れる。それに合わせて垂れた頭に、
「鈴の音が聞こえるからな」
 と、親しげな声色で言う長次の声が通り抜けて行くのだった。

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