咄、彼女について

□紙魚・其の二
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 ある強欲な商家の男がいた。

 あれも欲しい、これも欲しい。何よりその為に金が欲しい。
 その強欲さには底が無く、そして排他的であった。己は常に美しい唐木綿の服を着て、贅を尽くした食事をし、住み心地の良い屋敷で寝起きしているのに、使用人には粗末な食事と僅かな給金しか与えず、夜は筵に寝かせて朝も早くから働け働けと酷使する。そんな男である。

 男は、一度欲しいと思ったものは絶対に手に入れないと気が済まない人間であった。
 それが、例え、血の通った人であってもだ。
 ある日の事だ。
 大して信心深いわけでもない男が、ふとした気紛れに遊山気分で足を踏み入れた寺で、一人の美しい尼僧を見掛けた。尼僧は、別の尼寺に勤めていたのだが、その日は偶さかに寺の和尚に教えを乞いに来ていたのだった。
 それを、偶さかに、男は見掛けてしまった。
 そして、欲しいと思った。
 その蓮の花の様な滑らかな肌を。
 長い睫毛の伏せがちな瞳を。
 薄い桃色の瑞々しい唇を。
 どうしても、欲しいと思った。
 嗚呼、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい。

 男は、一度欲しいと思ったものは絶対に手に入れないと気が済まない人間であった。
 だから、人を金で雇い、その美しい尼僧を拐かしたのだ。
 突如、己に襲い掛かった疫災に驚き恐れ御仏にすがる尼僧を、男は屋敷に閉じ込め、その清らかである筈の、蓮の花の様な肌をした身体を、

「おい待て、一体さっきからなんの話だ!」
「人の話は遮るもんじゃないねぇ、留三郎」

 図書室からの帰りだった。

「お前が勝手に話し出したんだろうが!!」

 そう。図書室からの帰り、勝手に着いてきたくノ一教室の下坂部鏡子が、廊下を行く俺の半歩ぐらい後ろを音も無く歩きながら、こんな話があると、唐突に宣ったのだ。
 そうしてぼそぼそと語りだした鏡子を、俺は端からいないものとして無視を決め込んでいたが、その唐突で脈略も無い昔話めいたそれが、徐々にいかがわしげな色を付けだしたせいで、ついつい振り返って相手をしてしまったのである。

「にしても、女が話していることは特に遮るもんじゃないねぇ。野暮天だの無粋だの陰口を叩かれたいんなら別だけども」

 と、鏡子は、俺の怒鳴り声や剣幕などに堪える様子も無く、やれやれとでも言いたげな表情で首を傾げるのだ。やれやれと言いたいのは此方である。いや、やれやれよりもこの時はいい加減にしろと言いたかった。然し、怒りや苛立ちに任せて怒鳴り散らすのも格好悪いように思った。

「いきなり変な話をする方が悪い」

 なので、俺は無理矢理でも声を抑えてそう言った。それは、妙なダミ声になった。鏡子が途端、うっすらと笑ったのを見た俺の顔はびくびくと引き釣る。

「変な……ってのはどの辺が?」

 にやりと笑いながらそう聞いてくる鏡子。皮肉を言えば、この頃からこいつは五車の術の名人である。ただし、怒車に偏りがちのだ。

「知らん!」

 俺の返しは、一年坊主ならではの餓鬼っぽさで、鏡子の、きっと赤い顔をしていたろう俺を見ているその眼差しは、今思えば、妙に優しげで大人びていた気がする。

「留三郎が、長次と私が知り合いであるのが不思議そうだったからなぁ」
「だから、なんの話しだ」

 鏡子は、当時一年坊主だった俺の目から見ても、賢く大人びて見えていた。だが、この言葉が妙に足りないというか、独自の道筋で物を話す癖は幼い頃から変わっていない。
 今ではもう馴れた(……不本意である)が、餓鬼の頃は、ただ面食らい、不愉快なだけだった。

「私からは鈴の音がするんだとよ。長次が言うには」
「だから、なんの話なんだよ」
「まあ、お聞きよ。留三郎が遮った、その先が重要なのさ」

 そうして、鏡子は俺の隣に並び、またボソボソと語り出す。
 俺の記憶違いもあるかもしれないが、その時、廊下には、突っ立つ俺とボソボソと語る鏡子以外おらず、酷くシンと静まり返っていた様な気がする。

「そも、この話は、私の父が聞いたものなのさ。往来で父の袖を引いてその話をしたのは、死にかけの、酷くぼろぼろの、路頭に迷った女でね。その痩せた足首には血が浮く程にきつく紐が巻き付けられ、紐の先には、鈴が着いていたそうだ」

 俺は、鏡子を見る。その重たげに黒い前髪の下の、白い顔は無感情にぼんやりとしているように見えた。

「逃げられぬ様に、着けられた。それでも漸く、逃げて来れた」

 そう言う鏡子の声が、ふいに嗄れ、掠れた音に聞こえて、俺の首筋にざわりと何かが過る。

「のぉ、あなた様は、わたくしが、どうやってあの男から逃げたとお思いか」

 鏡子の伏せた目は、俺を見ていない。
 俺を見ぬまま、のろのろ白い手を伸ばして来て、棒立ちになっている俺の袖を摘まむように、くんと軽く引く。

「食いちぎってやったのよ」

 俺の袖を摘まむ鏡子の指は、ふと離れて、だらりと力無く落ちるように腕も離れていった。

「そうして女は父の前でこと切れた。その日の昼下がりだ。産気付いた母が私を産み落としたのは」

 ちりん。と、鈴の音が、した様な気がした。
 俺はただ何も言えず、俯いた鏡子の黒髪に半分隠された白い頬を見ていた。
 重たく粘り着く様な、嫌な沈黙に、俺は小さくすんと鼻を鳴らす。
 それが合図でもあったかの様に、鏡子がふっと顔を上げた。
 ギクリとした。
 白い唇が、直ぐ目の前で、ゆっくり、開く。

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