咄、彼女について

□紙魚・其の一
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 一年生の頃だ。

 私の耳が、とても良く聞こえる(・・・・・・・・・)事に気付いたのは、凡そこの頃からだった様に思う。
 そも私の産まれ在所である山間のあの村では、特に男は耳聡い者が多かった。風の響きや鳥の声、獣の足音、葉擦れの音。そういった音を正しく聞き分けれるのは、山で暮らしていくには必要な力であったから。
 更に言えば、私はわりかしにぼんやりとした性格で茫漠とした幼少期を過ごしていたせいか、自分のものの聞こえ方等にいちいち気を留める事も無かったのだ。
 故に、忍術学園に入学し、図書委員会に所属して、色々と物事をはっきりと考える様になった頃、漸く自分の耳が、人と比べると少し良く聞こえ過ぎているのではと思ったのである。

 同輩や先輩の声色や息遣いからその心中を図れたり、遠いところの銃声が聞こえたりと、忍者のたまごとしては申し分の無いものならばまだ良かったが、誰もいない暗がりから聞こえてくる微かな話し声や、壁の向こうを走る足音等について話すと、皆、変なものを見る様な目を私に向ける。
 何度かそんな事を繰り返す内に、「ああそうか、これは皆には聞こえてないのか」と納得する様になった。
 然しそれでもまだその頃は、聞こえたら変なものとそうでないものの区別が曖昧だったのでついポロリと口に出してしまうことも多かった。

 それらに関して、今でも忘れ難き事が二つある。どちらも図書室での事だ。


「なあ、君、鈴を持ってるのか?」

 と、私がその年頃の近そうなくの一教室の女子に声を掛けたのは図書室でだった。
 彼女がふっと顔を上げる。黒々とした髪に白い顔が良く映える少女だったが、少女らしい愛らしさが妙に乏しい顔立ちをしていた。目鼻の均衡は幼いのに、眼差しだけが酷く老成しているというのか、とにかくその顔立ちは何処か不均衡で、だが当時の私にはその不均衡を表せる程の語彙は持たなかった為、彼女に対する最初の印象は、綺麗だけれど少し不気味な子だなという単純かつ失礼なものに留まった。

「鈴」

 彼女は色の薄い唇でそう囁いて、読み掛けだった本をぱたりと閉じた。『荘子』だった。随分と難しい本を読むのだなと私は目を見張る。
 私が知る限りの女性は、とはいっても私の村の女達だが、読み書きなど出来ないものが殆どだったからだ。
 くの一教室とは凄いなあと呑気な事を思う。そんな私を彼女がじっと見ているので、ああそうだったと私は彼女に声を掛けた理由を話し出すのだった。

「さっきから、君が身動きする度に鈴が鳴るみたいな音がする。悪いけど図書室は余計な物音は御法度だ……ってあれ。そういえば、」

 彼女から聞こえる鈴の音。学園に入学してから度々聞いている気がする。
 廊下や、食堂、学園の裏森……大抵、某かとすれ違ったり人の気配らしきものがあったような……

「もしかして、何時も鈴を持ち歩いてるのか?」

 彼女はぱちぱちと目を瞬かせたかと思いきや、小さく噴き出した。

「あやぁ……こりゃまあまあ、」

 ふっふっと、笑いを堪えるように抑えた口許から息を溢しながら私を繁々と見る。

「鈴は、生憎持ってないねぇ」
「…………そう、か」

 ああ、もしかしてまたやってしまったか。と、気まずさに頭を掻くが、彼女は笑みを浮かべたままで気を悪くした様子も無い。

「くの一教室の下坂部鏡子だ」

 彼女はそう名乗った。

「ああ、えっと、一年ろ組の中在家長次。変な事を言って悪かった」
「なんの、なんの。心当たりが全くない訳でもないさ」

 喋り方がなんだか見た目に合ってないなと、私は思った。
 これが、忘れ難き出来事の一つ、鏡子との出会い。

 そして、もう一つの出来事は、図書室にて時折聞こえる音についてだ。

 それは、かしゅかしゅかしゅ。と、何が擦れるような音。それと一緒に聞こえてくる男とも女とも着かない小さな囁き声。
 それは脈略は無いが何時も纏まった意味のある言葉である事が多かった。

 ある時、その声が、「死中に生を求むべし」と囁いた。
 何の事かと声がした方を見れば何時も通り、書架しかない。何と無く、そこから一冊を取って、ぱらぱらと捲る。後漢書は、まだ当時の私には難しく、本当にただ何と無くぱらぱらと捲っていれば、ふと紙に穴が空いている場所があるのに気付いて仰天した。
 慌てて先輩に見せに行けば、先輩は静かに苦笑を浮かべながら、「良くあることだよ。見つけてくれてありがとう」と言ったのだった。

 先輩はそれをしみという虫の仕業だと言う。
 紙の魚と書くそうだ。
 虫なのに、魚とは、一体どういう姿をしているのかと私は思った。

 当時の私は、かしゅかしゅかしゅという奇妙な音と、囁く声だけを聞くのみで、その姿を見た事が無かった。
 そして、虫が囁く筈も無いという考えは、幼い頃の私には無かった。

 その後、鏡子と親しくなり、同じ時期に、当時図書室に良く来ていた留三郎とも親しくなり、私はふとした切っ掛けにこの奇妙な音についてついポロリと打ち明ける事になるのだった。

 
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