咄、彼女について

□紙魚・其の一
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 一年生の頃だ。
 つい先日、とある妙ちきりんなくの一教室の奴に『少しは本を読め』等と宣われて、何くそ本ぐらい幾らでも読めるわと図書室に通うようになった。
 最初は取っ付きやすそうな絵草紙や御伽草子や歌集やらを片っ端から手に取り目を通した、その内、軍記物や兵法書を読むのが格好良さげだとそればかり読み漁る様になった。
 意味が分からない部分を多々読み飛ばしてはいたが、読めば読むほど何やら己が賢くなった様な気がして悪くないのであった。
 だが、あの妙ちきりんなくの一教室の奴、下坂部鏡子が言っていた『影に問う』の一節が書かれた本だけは未だ見当たらなかった。
 
 下坂部鏡子。俺と同じ、見えない筈のものを見て、聞ける奴。
 当時の俺が、鏡子に親近感を全く抱かなかったかと言えば嘘になる。
 だが、俺以上に、いや、俺のみじゃなく俺の周りのどの者よりも、何もかもを色々と分かっている様なあいつの立ち振舞いに対して抱く心情は昔も今も変わらない。
 不快感に近いが少し違う。
 例えるならば、それこそ影を見た様な、夢中になって遊んでいたら気付かぬ内に日が落ちかけていて、誰もいない野道に黒々と伸びる自分の影を見て、それがあまりに大きく長くて何やら恐ろしい気分になるような、そうして辺りがあっという間に薄暗くなってしまい心細い気分になるような…………この例えも上手く当てはまっているのか分からない。
 もっと簡単に、有り体に言えば、不気味。
 昔も今も鏡子は人を落ち着かない気分にさせる天才なのである。

 そんな鏡子には、あの金楽寺での一件以来、顔を合わせていなかった。
 いや、当時の俺がそれを気にしていたという訳では無い。未だに『影に問う』の一節が何を意味していたのかが分からないのが癪であり、馬鹿にされた様な気分であったというだけである。いっそ問い詰めてやろうと思わないでもなかったが、鏡子と行き逢う事が全く無いのだった。目立つ奴だから遠くで見掛けるだけでも直ぐに分かりそうなものなのに。
 それもまた、馬鹿にされている様な気がする。

 そんな事をつらつら頭の端で思いながら紙を捲っていれば、ふと影が被る。後ろを見れば、はたきを片手ににこやかな同輩がいた。

「今日も兵法書なんだな」
「長次」

 ろ組の中在家長次とはこの頃、俺の図書室通いを切っ掛けに知り合った。
 後の『沈黙の生き字引』は、後の『不運大魔王』と同じく一年生時から図書委員であった。
 また、今の姿を知る者は凡そ信じられないだろうが、この頃の長次は、良く笑い愛想の良く人当たり抜群の子どもだった。調度、今の五年の、不破雷蔵に近い雰囲気である。あの仏頂面と寡黙を作ったのは後の得意武器である縄鏢が着けた傷のせいである。
 なので、この時、既に名前で呼び合うくらい親しくなっていた俺に向けられていた長次の表情は、明るい笑顔で、声も図書室だから密やかではあったけど押し込めた様な響きは無い伸びやかな子どもらしい声色だった。今ではあまりに遠すぎる面影だ。

「御伽草子で面白いものが入ったから、また読んでみると良いよ」
「ああ、ありがとう。でも俺、やっぱり兵法書が好きだなあ。格好良いから」
「……男児当に死中に生を求むべし、坐して窮すべけんや」
「何だそれ!」
 
 ただ、物識りなのは、昔から変わらなかった。加えて幼い時分での『物識り』というのは、それだけで何やら格好良さを感じるものである。
 その時も、呪文のようなその言葉が、それをすらすらと述べた長次が、何だか凄く格好良いと思った餓鬼の俺はつい声を大きくしてしまった。
 図書室の奥の貸出受け付けの方から咳払いが聞こえてきて、俺は慌てて口を押さえる。何故か長次まで口を隠していた。

「後漢書っていう歴史の本。難しいけどお勧め」

 もごもごと掌の下からくぐもった囁き声で長次は言った。それから、受け付けの方を見て、そこの文机で書き物をしていた当時の委員長に頭を下げた。委員長は静かな笑みを返してきた。

「じゃあ。僕、実のところ当番中だから」
「あっ、待ってくれ」

 実のところと言わずとも当番中なのは見れば分かる。
 だが、立ち去ろうとした長次を俺は呼び止めた。

「ちょっと聞きたい事があんだ」
「うん?何を?」
「『影に問う』って何の事か分かるか」

 そう。長次ならば或いはと思ったのだ。
 長次はきょとんと目を瞬かせて、首を傾げた。とんとんと、はたきの柄で肩を叩きながら天井を見上げるようにしている。

「かげ、って、あの地面にできる影か?それとも月影の影か?」
「いや、それは分からん」
「……んんん……何処かで見た様な、なんか此処まで来てるけど」

 長次の眉間に皺が寄る。思えば、その表情は今の厳めしい顔立ちの片鱗が多分にあった。
 でも、それは短い間にぱっと緩み、「先輩に聞いてみる」と、踵を返すのだった。

「え。いや、」

 そこまでしなくても良いと言いたかったが、長次はさっさと、あの受け付け席で書き物をしている物静かな当時の図書委員長の元へ行ってしまった。
 そうして、ひそひそとやり取りをした後、先輩が指差したままに一つの書架から一冊の本を取り出して、にこにこと此方へ戻ってきた。

「分かったよ」

 長次が、持ってきた本を俺の前に置く。

 その時だ。
 ふと、長次の目がはっと見開かれた。俺の直ぐ隣で上げられた顔は横の書架を見ている。
 
「どうかしたのか」
「ん、悪いな。それ読んでてくれて良いから」

 そうして俺の前に『荘子斉物論』を置いて長次はその書架の向こうへと立ち去ってしまったのだった。

 一体何なんだかと呆れながら、俺は言われたままに置かれた本に目を通す。
 逸話ばかりを集めた様な、少し読み下しにくいそれをぱらぱらと捲っていれば、やがてそれに行き当たった。


 ……罔両、景に問う。


「あやぁ」
「うっ!?」

 再び被ってきた影。聞き覚えのある独特な感嘆符にばっと振り返る。
 そこにぬらりと立つ鏡子の背後から、また咳払いが聞こえてきた。

「久し振りだね留三郎」
「……よぉ」

 俺の最大限に憮然とした態度と表情等気にする風でも無く、鏡子は気安げに隣に腰を下ろして俺の隣を覗き込む。

「そうそう、景に問うだよ。存外に勤勉で感心だねぇ」
「うるせぇよ」

 肩がぶつかりそうな近さに思わず腰を軽く浮かして横にずれた。鏡子は開いた距離を詰めては来ないがにやにやと笑っている。腹立たしい。
 その時、書架の向こうから長次が顔を出した。

「……ああ、そっちにいたのか」

 少し呆けた表情で、そう呟く様に言った言葉は俺にではなく、俺の隣の鏡子に掛けたものらしい。鏡子は鏡子で、長次に向かってひらひらと手を振っている。
 まさか知り合いなのか。と、二人を見比べる俺も多分、呆けた顔をしていた。


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