咄、彼女について

□右と左・其の二
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※捏造過多……既存キャラの兄弟捏造、過去捏造等々。微グロ表現あり


 続きを話せ。
 鏡子さんにそう言われた俺は、再び思い出の中へと落ち込んでいく。
 一つ一つが直ぐに思い出された。あの時の空気、色、音や匂いまでがその場にあるかの様に立ち上る。
 今の今まで、誰にも話さなかったというのに、いや、話さなかったからこそ、その鮮度の様なものを落としていなかったのかもしれない。

「……俺は、確かに、それを飲みました」



 銀色の泡が少しずつ少しずつ揺れながら上がってくる光る水は、何時までも見ていれそうだった。
 これは、兄にも見せてやりたい。
 と、思ってから、はっと我に帰った。
 そうだった。兄に水を汲んでやりに来たのだった。
 湯飲みはどこだ。
 ああ、そうだ。爺さんが持っている。
 俺は隣を見上げて、爺さんに湯飲みを返してもらおうとした。

「……あ」

 爺さんはいない。
 何時もそうだ。勝手に出て来て、勝手にいなくなるんだから。
 湯飲みは……ああ、良かった。それは置いていったみたいだ。
 懐にごろりとした重みがある。取り出してみれば、それはちゃんと、兄から預かってきた湯飲みだった。
 湯飲みをそっと、水の中に入れてすくい取る。小さな湯飲みの中に入っても水はまだ淡く光っていた。

 これを見せたら、兄はどんなにか喜ぶだろう。
 これを飲んだら、きっと兄の身体は良くなる。

 さあ、早く帰って兄に飲んで貰わなくてはと走り出したい所だったが、揺らせば並々に入れた水が溢れてしまう。逸る気持ちを抑えて、ゆっくりと歩き出した。

 ところが、だ。

 来た山道を、降りるだけの筈が、道に迷ってしまったのか、何時まで歩いても木立が途切れない。
 ああ、どうしよう。またこの場所だろうか。それとも似ているだけだろうか。
 もう何度も、何度も、同じ様な場所をぐるぐると回っているような気がする。
 そして、困った事に、だ。
 迷ったことに焦ったせいかもしれない。
 喉が乾いてきた。

 その乾きは、今思い出しても痛みを感じる程で、喉が熱く思える程で、唾を飲もうとしても舌はねばついて気持ちが悪いだけで、ああ、早く帰りたいのに、

 早く帰らねば。
 喉が乾いた。
 兄に飲ませねば。
 喉が乾いた。
 また同じ道だ。
 喉が乾いた。
 早く。
 喉が乾いた。
 兄が。
 喉が乾いた。
 兄が。
 喉が乾いた。
 早く、早く、早く。
 喉が乾いた。
 兄が。
 喉が乾いた。喉が、喉が、喉が。
 兄が、死ぬ。



 喉が。
 

 俺は、ボロボロと涙を溢しながら湯飲みの中身を飲んだ。

 喉から、ごくごくと音がする。

 身体が痺れるくらいに、甘くて、冷たくて、頭かぼやける程に良い香りのする水だった。

 誰かが、耳元で笑った気がする。

 飲みきり、手から湯飲みが落ちた。

 辺りは気が付けば真っ暗で、知らない間に、日がすっかり落ちていた。

 その後、どうやって家に帰ったかは良く覚えていない。

 兄は、その三日後に、息を引き取った。





「……これで、終わりです」

 そう、話し終えたと同時に、俺は、はあっと大きく息を吐いた。
 吐いた息をまた吸えば、現実の色と空気が戻ってきた気がする。
 とは言っても、中から閂をされた部屋の中、目の前には胡乱な白い顔で此方をじっと見ている下坂部鏡子さん……と、中々に現実も非日常的だった。

「ふぅん、終わりか」
「終わりです」

 鏡子さんの目が、すっと細くなり、口角がきゅっと上がる。

「勘右衛門。お前。時折、記憶が飛ぶことは無いかい」

 すっと背筋が冷えた。
 目の端で、何かが蠢く。

「どうなんだよぅ?」
「……あり、ます」

 答えた俺の声は、俺のじゃないみたいに掠れてガタガタと震えていた。

 そう。鏡子さんが言うとおり、俺は記憶が度々抜ける。

ーー時々お前は別人みたいになる。
ーーあいつは変だ。
ーーお前が怖い。お前は誰なんだ。
ーーもう、止めてちょうだい。

 今まで言われて来た言葉が耳の奥でざわめき頭がぼんやりとした。
 駄目だ。出てこないでくれ、爺さん。

 爺さんは、俺の身体の中にいる。
 爺さんが、俺の身体を勝手に動かしている。

「そうなったのは、何時からか、分かるかい」

 俺は、目の端で蠢くものを見ないように、じっと鏡子先輩を見る。

 こんな状況じゃなくて、できれば明るい場所で、良く良く見れば多分、穏やかで優しそうな部類に入る顔立ちなのだと思う。
 だけど、その目は、纏う雰囲気は、俺が黙る事も誤魔化す事も許していない。

「……あの水を、飲んでから?」

 鏡子さんは笑う。

「あやぁ…………惜しい」

 すぐ横で、左の耳にまた、山鳩の様な、爺さんの、笑い声が聞こえた。

「左と、水は、繋がるようで繋がらんのさ。どうにかすべきはどちらもだが、事は水には無い」

 鏡子さんの言うことは、俺には良く分からない。

「それも、見えてるんですか」

 鏡子さんは、ほんの一瞬キョトンとして、それから、少しの間を置いて「ああ」と、頷いた。

「お前も、見なくちゃね」

 視界の端。
 それは、右目だ。
 部屋の隅。
 蠢く何か。
 低い、唸り声。

 うー……うー……うー……えぅ……んうー…………

「お前が見てあげなくちゃならんよ。勘右衛門」

 それは、爺さんではない。

 鏡子さんは、徐に懐から小さな袋を取り出すと立ち上がり、その中身を少しずつ床へ出し始めた。

「お前が飲んだ水は、変若水(おちみず)の類いの様なものだ」

 床へ出されていくは、白い、粉状の……塩だ。
 塩で、細く細く線を結びながら、鏡子さんが歩いていく。

「おち、みず?」
「あや、知らんかね。月に住む神が持つ霊薬さ……お前の喉が乾いたのは、それがお前に寄越された水だからだよ」

 塩で線を引きながら、鏡子さんはそれで弧を描くようにして俺の背後へと回る。

「俺に、寄越された?」
「お前が汲んだもの」
「俺は、汲んだだけです」
「んなもん、向こう様にゃ関係ないよ」
「向こう様って?」
「お前に水を寄越した方々だね」

 右側から背後を回って左側へ。
 塩が無くなったのか、鏡子さんは、懐から新しい袋を出した。

「寄越した方々の道理よりも、重要なのは、それを汲ませた左の道理さ」

 左側もまた、大きく弧を描くようにして、鏡子さんは、歩き出した場所まで戻っていく。
 左側の方が、右側よりやや大回りな様な気がする。とはいっても、おれは真っ直ぐ前を向いたままどちらにも顔を向けれないのではっきりはしない。
 右側からは、唸り声。
 左側には、爺さんの気配。

「そして、それを飲んだお前の思うこと」

 線の始めと、線の終わりがぴたりと結ばれた。
 「この線は踏むなよ」と、鏡子さんは言って、先程よりも俺の近くに腰を下ろした。

「勘右衛門、お前は、その兄様の事が好きだったんだね」

 俺の顔を覗き込むようにして、鏡子さんはそう囁いた。
 ゆっくりと頬を撫でるような、優しい声だった。
 俺は頷いた。

「優しい兄でした、あまり出来が良くないって、言われていた俺を、勘は良い子だって、良く誉めてくれました」

 鏡子さんは、草臥れた様な、悲しそうな、何とも言えない薄く陰った表情で、俺を見る。

「……水を、飲ませてやれなくて、どう思った」

 鏡子さんが囁く。
 唸り声が、少し大きくなった気がする。

「…………悲しかったです。それに、悔しかった」

 んー……ぇうー……うー……うぉー……んうー……

「飲ませたら、きっと兄は生きてたかもって思うんです。俺の」

 俺のせい。と、言おうとした唇を、鏡子さんの指が抑えた。
 はっとする程に冷たい指だった。

「……さて、此処までお膳立てしてやったんだ。いい加減出て来てほしいものだね」

 なあ、左。

 鏡子さんが、殆ど息みたいな声でそう言った。

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