咄、彼女について

□右と左・其の一
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※既存キャラの過去捏造


 兄が寝込んでいた。
 熱い夏の日の午後だ。
 開け放たれた障子、薄暗い部屋の中では夏の風邪を拗らせた一番上の兄が浅い呼吸に咳を混ぜながらうとうとと布団にくるまっていた。
 六つかそこらだった俺には、その布団がとても暑苦しく見えたのだが、ひっぺがした日には母に酷く叱られたので、じっと縁側からそれを見ているだけだった。
 青の混じった薄墨を溶かしたみたいに暗い部屋の中とは対照的に、縁側とそこから繋がる庭は目映い程に明るく、蝉の声は煩く、茹だるように熱い。
 顎に汗が垂れて、首に伝ったり、床に落ちたりした。
 近所の子ども達が遊ぶ声がしても、俺は縁側でじっと兄を見ている。
 昨日、爺さんが兄はもう長くないと言ったからだ。

 爺さん、というのは、俺が物心着いた頃には既にこの家にいた。
 何時も不機嫌そうな顔をして、物知りで、急に現れては知らない間に消える。雨が降るだとか、日照りになるだとか、山向こうで大きな戦があるだとか、爺さんが言った事は大概当たる。だから、兄はもうすぐ死ぬぞと言ったのも当たるに違いないのだ。
 俺は手に持っている棒をぎゅっと握りしめる。村の長老が言っていたのだ。人が死ぬ時にはお迎えが来るんだと。俺は、兄を迎えに来た輩をこの棒で追い払うつもりだった。

「お前、どうした」

 幼いながらに息巻きながらも、酷い暑さにぼんやりとしていたら、兄の声がして我に返る。
 兄が枕に乗せた頭を此方に向けて、不思議そうに俺を見ていた。

「遊びに行かんのか」

 兄が聞く。
 俺はふるふると首を横に振る。
 兄は苦笑した。
 その時の俺には気付けなかったが、兄はきっと幼い弟に気を遣われていると思ったに違いない。

「なあ、冷たい沢の水が飲みたいんだ。行って、この兄に一杯汲んできてはくれまいか」

 そう言って、兄は、白い手を枕元に伸ばしてそこにある湯飲みを取った。

「急がないからな」と、差し出されたそれを俺はそっと受け取る。雪みたいに白い指だのに、兄のそれは触れれば飛び上がる程に暑かった。
 兄はああ言ったが、急いで行こうと庭に降りれば、庭木の影に爺さんが立っている。
 黒っぽい緑っぽい色をした着流しにこの暑いのに肩から羽織を掛けた何時もと変わらぬ格好で、爺さんは俺に手招きをした。

「にぃが、沢の水飲みたいって」

 近付いてそう言えば、爺さんは、こっくりと頷いた。

「沢の水より、良いもんがある」
 
 爺さんはそう言って俺の手から湯飲みを取り上げ着流しの袂に放り込み、空いた俺の右手を引いて歩き出した。庭から外へ、さっきまで遊ぶ声が聞こえていた筈の近所の子ども達の姿は何処にも見えず、日に照らされ真っ白な地面と、そこから沸き立つゆらゆらとした陽炎と、そこに降り注ぐ耳が痛くなるような蝉の声だけが、俺と爺さん以外にそこにあるものだった。
 爺さんに手を引かれその眩しい地面を歩く。

「爺さん、沢はあっちだよ」
「言うたろうが、童どもが遊ぶ沢より良いもんがあんだ」

 爺さんは日差しに照らされ顔まで真っ暗の影に見えた。
 爺さんが歩いていく方向にはこんもりと青い山が見える。頭の奥がぼんやりとして、なんだか眠いようで、汗が目に流れ込みそうになって、俺は目を閉じる。そうして開けば、何時の間にやら、木漏れ日の山道を歩いていた。
 何故かその事をちっとも不思議に思わなかった。それどころか、上の方から吹き下ろしてくる風が涼しくて気持ちが良いなとすら思った。
 土の匂い、樹の匂いがとても、とても濃くて、一呼吸ごとに胸が緑色に染まる気すらした。
 爺さんを見上げる。
 爺さんは、珍しく笑っていた。
 
 ほう、ほほう、ほう。と、梟や、山鳩みたいな爺さんの笑い声が、辺りにこだまする。

 ほう、ほほう、ほう。
 ほう、ほほう、ほう。

 ほう、ほほう、ほう。
 ほう、ほほう、ほう。

「ほれ、着いた」

 やがて爺さんが立ち止まったのは、切り立った崖の前だ。高さはそれほども無い、子どもの俺の背でもすぐ上に植わる樹や草が、手は届かないにしても良く見えるくらいだ。その崖が立ち上る根元に、苔むした青黒い岩が突き出ている。岩の天辺は鉢の様に窪んでいてそこに水が溜まっていた。雨水が溜まってでもいるのだろうかと、最初はそう思った。

 だが、はて、雨水は光ったりするのだろうか。

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