咄、彼女について
□覚の事・其の三
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「俺が思った事を口に出しているのかこの男はじゃあ今から一つ試してみるか」
と、ボソボソとした声で男は言った。
「まさか今のも考えを読んだのか」
と、男は言った。
俺は男の目を見る。落ち窪んだ眼窩に浮かんだ濁った白目と焦点の合わぬ目。
そして今でも良く覚えているあの奇妙な感覚。
「試すならこいつが絶対知らないことでないといけない。そうだな。俺の名前だとか。俺の名前は食満留三郎当たりだこれはやはり俺の考えていることを読んでいるのか見たところ化け物の類いには見えないが奇妙で不気味だならばこれ以上は余計なことを考えない方が良いのかもしれない例えばこの間の」
「止めろ」
「止めろ」
俺が思わず口に出していた拒絶は、男とぴったり揃って部屋に響いた。
ぞわりと肌が粟立つ。足元が急に揺れた様な気分になった。
「ひっ!」
「ひっ!」
また男と声が被った。一瞬遅れて、俺の腕を掴んだのが和尚様の手だという事が分かる。
「これ以上は危なかろうな」
と、男が言った。
和尚様は黙って俺の腕を引いて廊下へと出す。
半ば引き摺られる様に廊下へ出された俺の目の前で部屋の戸がぴたりと閉じられた。
ぶるっと身体が独りでに震える。汗をびっしょりと掻いていた。
「大丈夫かね?」
和尚様が気遣わしげに俺の肩を叩いた。俺は曖昧に首を振るだけしかできない。
情けない。その情けなさを誤魔化す様に俺は、視界の端に映った相手をぎっと睨み付けた。
「……へ、部屋で待ってろと言ったろーが」
「言われたが了承はしとらんよぉ。後から別々に行くなんざぁ和尚様に手間を取らせちまうだろうに」
鏡子は、そう大人しげな見た目にそぐわない蓮葉で適当な雰囲気の喋り方でもって答えて、俺の側へと歩み寄って来た。
「顔色が酷いね留三郎」
ヌッと伸びてきた鏡子の手が俺の頬に添えられた。白くて冷たい指はこの頃からずっと変わり無い。俺はそれを「煩い」と払い除ける。
払われた鏡子は、気にする風でも無くへにゃっと力を抜くような笑みを浮かべたのだった。
「会見ての感想は如何かね」
ぴたりと閉じられた戸をじっと見つめて、鏡子が聞いてきた。
「恐ろしかったか」
「恐くなんかねえよ」
半分は強がりだ。全く恐ろしくなかった訳では無い。
だが、それ以上に、恐ろしいと簡単に言えない奇妙な感覚があったのだ。
俺はグシャグシャと自分の頭を掻く。もう片方の手は胸元を握りしめている。ざわざわと肌がまだ粟立つ様な気分はまだそこに残っていた。
「……俺の考えが、そっくりそのまま口に出されていく……なんつーか、その、」
まだ餓鬼だった俺はその奇妙な感覚を表す言葉を自分の中に見つけることができなかった。
唇を噛んで、乾いた舌をもごもごとさせても、そこから先の言葉が出てこない。
「まるで、己の心が相手に吸いとられていくような、己の心なのか相手の心なのかが分からなくなるような……そんな気分では無いかね」
和尚様が言った。
俺の言いたかった事にとても近いそれに、俺はぶんぶんと首を縦に振る。
見上げた和尚様の表情は少し暗く、憔悴している様に見えた。
「心、ね」
鏡子が小さな、それはもう吐息の様な声で呟いた。未だじっと閉ざされた戸を見つめる鏡子の横顔からは何を考えているかが分からない。
「事の始まりは、見世物にされていた男を私の知り合いの医者が引き取った事からです」
和尚様は、そう、鏡子に言った。
「その医者はどうなりました」
鏡子の問いに、和尚様の表情は更に暗くなる。
「…………ある日を境に表を歩くのを見なくなったそうです。応診にも答えず家に閉じ籠るようになったと、不審に思った近所のものが私に話を持ち掛け、医者の家へと行きました。医者は、」
言葉に一瞬詰まった。
「……死んでいたんですか?」
思わず先を聞いていた俺に返ってきたのは、否の答えと共に重い動きで首を横に振った和尚様の、暗い眼差しだ。
「留三郎君が今、会ったのが、その医者ですよ」
「…………え?」
俺は目を瞬く。
てっきり、その見世物にされていた男が、さっきの男の事なのだと思っていた。
和尚は小さく息を吐き、続きを話し出した。
曰く。
和尚様がその医者の家に行った時に見たものは、暗い部屋にぼんやりと座る医者と、鴨居に首を吊って死んでいた見世物の男だったそうだ。
死体は腐りかけていた。医者は随分と長い間そこに座って首吊りを眺めていたらしい。
医者の様子を尋常では無いと見た和尚様が、「何があったのだ」と声を掛けながらその肩を叩く。医者はぶつぶつと何かを呟きだした。
儂の心は奴が死んで取り返したと思うたが、はて、あの鴨居に吊られているのは儂なのか奴なのかが皆目分からん。今思うのは儂か奴か。儂は奴か、奴か、儂は儂は奴か…………。
儂は一体、誰だ。
「それだけを譫言の様に呟き、医者は倒れました。拙寺に連れ帰り介抱し、目覚めた時には既にあの様に」
鏡子がすんと鼻を鳴らす。
見れば、何故か良く分からないが笑っている様に見えた。
「かげにとう……ってな」
そうまた、小さな声で呟いた鏡子は、戸に手を伸ばす。
「おい、」
俺は思わず、思わずだ。その肩に手を掛けて引き留めた。
鏡子は俺を見る。
やはり、笑っていた。
「留三郎は、待っていなよ」
先程、俺が言ったようにそう一言、鏡子は戸を開き、部屋の中へと入っていく。
そのまま後ろ手に、戸は閉められ、俺と和尚だけが廊下に残されたのだった。
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