咄、彼女について

□覚の事・其の二
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 正門前に着けば、既に下坂部鏡子が待っていた。

「ごめんな、遅くなった」

 そう謝りながら近づいていけば、鏡子は凭れていた塀から背を浮かし、首を横に振る。
 この当時から、鏡子は藤色を好んでいた様に思う。幼い時分の少女が身につけた藤色の小袖は、餓鬼の俺から見れば妙に大人びた雰囲気で、落ち着かない気分にさせたのだった。

「じゃ、行こうかね」

 斜め下に外した視線の端で、白いくるぶしが踵を返したのを見た俺はそれに黙って着いていく。

 視線を上げれば、大きな蜻蛉が、鏡子の側を飛んで行くところだった。
 ひた、と、空中に、鏡子の顔の横辺りで止まった蜻蛉は、またついっと飛び去っていく。
 藤色の背に黒い髪が揺れて、鏡子がそれを見送ったのが分かった。

「なあ」

 正門を跨ぎながら、俺は鏡子に声を掛ける。

「その、学園長先生に、聞いたんだが……」

 振り返った鏡子にじいっと見られて、その視線がまた落ち着かない。

「えっと、お前って」
「留三郎、あれを見な」
「え」

 逸らした視線を戻した声。
 視界に飛び込んで来たのは白い指。
 その指が示す先。

「……蜻蛉」

 が、五匹も連なりながら、高い高い天に登っていく。
 日の反射か、それとも俺の目が見せているのか、綺羅綺羅と星屑の様な光を撒き散らしながら、まるで吸い込まれるみたいに、見えなくなるまで高い天に飛び去っていったのだった。

「竜になると、そう言うとったよ」

 鏡子の声がした。
 此方を見て、笑っていた。

「夕方には雨が降る、急ごう」

 そう言って歩き出した鏡子に、もう問は浮かばなかった。
 答えを出されてしまった。その事に何故かむっと腹立ちが沸くのだった。
 鏡子は別段、俺を茶化すつもりは全く無かったのだろうと思う。
 それでも、その悠々とした、ゆったりと構えた雰囲気に、餓鬼の俺は嘗められている様に感じた。……正直、今も『嘗められている』とは時々感じなくもないのだが、それはまた別の話だ。

「金楽寺なら近道があるんだよ。んなボーッと歩いてりゃ日が暮れちまうぞ。急ぐってんなら俺に着いてこい」

 とにもかくにも、おなごのくのたまに嘗められては男子忍たまの恥であると、俺はざかざかと歩みを速めて鏡子の前を歩き始めるのだった。
 そうやって、山道を歩いていけば、やがて木々の向こうに金楽寺の屋根の端がちらちらと見えてくる。学園を出て四半時も経っていなかった。
 金楽寺までの道行きは幼い一年生でも日帰りができる程の他愛ない距離ではあるし、この近道だって俺だけが知るようなものでは無かったが、当時の俺は途端に得意な気分になったのだから餓鬼というのはお目出度い。
 ほら凄かろう、早かったろう、どうだ参ったかと、額の汗を拭いながら鏡子を振り返る。
 だのに、鏡子は、白い顔に汗もかかず涼しい顔をしていたものだからまたむっと腹立ちが沸く。
 然し、と、その重たげに黒い前髪の下の、白くて何処か胡乱な顔立ちを見ていたら、ふと今更の疑問が沸いてきた。こいつが学園長先生直々の遣いを受けるなんて一体、どんな用向きなのだろうか。

「なあ、お前」

「鏡子だ。留三郎」

 後ろから聞こえる声は、変わらずゆったりとしている。

「何だって構わねえだろ」

「いんや、構うよ」

 次の声は少し拗ねた様な響きがあり、俺は思わず振り返ってしまった。
 目が合う。鏡子はまたにっこり笑う。やはり腹の内の分からない感じだ。

「呼び方や名前つぅのは大事なんだよ、留三郎」

「どういうことだ」

「あやぁ」

 独特の声を出した鏡子の垂れ目がちな目が、ぶわっと音が立つくらいに見開かれた。

「留三郎は、物を知らないねぇ」

 態とらしく大袈裟に驚いた声と表情。
 これから幾度も聞く事になるお決まりの言葉だった。

「っ、知らんで構わん!!」

 と、俺の返しもまた幾度も繰り返すお決まりになるのだが、当時の俺はそんなことも知らず、ただ馬鹿にされたと今日一番のむかっ腹を抱えて踵を返した。
 供を頼まれたのなら、鏡子をちゃんと連れていくのが俺の本分だというのに、そのまま金楽寺の山門まで一度も振り返らず、ざっかざっかと歩き続けたのだった。

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