咄、彼女について
□覚の事・其の一
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物心着いた時から、俺の目と耳はずっとおかしい。
真冬の朝に桜の花弁が木も無いのに巻い飛んでいるのを見たり、死んだ筈の近所の婆さんが何時もと変わり無く畑に立っているのを見たり、小さな話し声がずっと着いてきたり等、数え上げればキリが無い。
小さな時分はまだ良かった。
他の奴等もきっとそうなんだろうと思っていたし、俺の兄姉達と両親は俺が見たり聞いたものの話を喜んでくれたから。
彼等は皆、俺の話を作り話なんだと思っていたのだろう。
「留は本当に面白い事を考えるなあ」と頭を撫でる手に、本当なのにという言葉を毎回飲み込んだ。それでも、あの頃は恵まれて、甘やかされていたのだと思う。
そう。それを本当におかしいと思ったのは、八つの頃。
今日の分の野良仕事を終えて、父と兄と歩く帰り道。同じ村に住む男とすれ違ったのだ。
父とにこやかに挨拶を交わすその男の背後に、夕日に伸びる影の中に、薄汚れた服を着て背の曲がった老人がいるのを見た。
俺はぎくりとする。
これまで、怖いものなら時々見てきたが、本当に、背中が冷たくなるくらい怖いものを見たと思ったのは、この時が初めてだった。
俯いた老人の顔は良く見えない。ゆぅらゆぅらと前後に揺れながらぶつぶつと何かを呟いている。痩せ細った首の上、骨の形が分かるような頭に申し訳程度に乗った白髪が、老人が揺れるのに合わせてゆわんと微かに揺れる。
枯れ枝の様な腕は力無く垂れ下がり、染みが飛び散った手の甲の先、長い爪は茶色く変色していた。
足には何も履いていない。ゆぅらと揺れると、足首にぐっと筋が浮く。
これ程はっきりと見えているのに、父と兄の様子からして、どうやら俺にしか見えていないのだ。
父と兄が歩き出す。
俺も仕方無く着いていく。
このまま歩いていけば、揺れる老人のすぐ横を通らなくてはいけない。
いっそ目を瞑ってしまいたかったが俺の目は何故か固まってしまった様で、そして耳は、その老人がぶつぶつぶつと呟いている言葉を拾い出す。
……に……か……そうに……そうに……いそうに……か……いそうに…………
可哀想に。
老人の動きがぴたりと止まった。
俺の直ぐ真横に、此方をにこやかに見ている男の影の中に立つ老人が顔を上げる。
白く濁った目が、俺を見る。
黄色い歯の覗く口が、にちゃ、と音を立てて、笑う。
そうして気がつけば、俺は自分の家の、天井の梁を見上げていた。
「あ、起きたね」と姉の声。
「あんた帰りに倒れたんだよ」と呆れた様に笑う声。
俺の額を撫でる姉の掌の下で、汗に湿った髪がぐしゃりとした。
そのにこやかな男が、実母と嫁と歩き始めたばかりの息子を、鉈で叩き殺したのが、それから三日後の事だ。
男のその後は、まだ幼かった俺は良く知らない。覚えているのは、村の男達に押さえ付けられ引き摺られるように山の方へ去っていく血みどろの男の、表情だ。
笑顔だった。
あの揺れる老人とそっくりな。
俺が、見えるものや聞こえるものを語らなくなったのも、良くないものを見た時に米神が切られたみたいに痛む様になったのもその時からだ。
俺が見ているものはおかしい。
見てはいけないものだから、見ていない、聞こえていないふりをしなくてはならないとそう思いながら、今日まで過ごしてきた。
「見えてなど、いません」
だからだ。
学園長先生の前で、無駄な事と分かっていながらも、突き付けられた事実に俺は頑なに首を横に振る。
学園長先生は、俺を見て、それから静かに息を吐いた。
「そうか、儂はてっきりそうなのかと思ったのじゃが……なにせ、」
気を遣われたのだと、俺は俯き、目を閉じる。
瑠璃色の鳥は、学園長先生にも見えているのだろう。
あんな綺麗なものばかりならば良い。
おかしな俺の目と耳は、吐き気がする様なものも同じ様に見て、聞くのだ。瑠璃色の鳥の美しさに心が踊らないばかりか「ああ、またか」と思う程に、俺は自分の目と耳にうんざりしていた。
「なにせ、鏡子君は見えて、聞こえる者じゃからの」
「え」
俺は思わず顔を上げた。
あいつが、あいつも、俺と同じなのか。まさか。
学園長先生は、呆けた顔をしているだろう俺にっと笑う。
「これも縁じゃて、道中良く話してみなさい。良き友になれるやもしれんぞ」
俺はそれに、曖昧な頷きを返して、部屋を後にした。
閉ざした障子の向こう側で、またきゅるきゅると鳴き声が聞こえる。
その場で少し立ち止まってそれを聞いてから、待たせると良くないと荷物を取りに長屋へと足早に戻るのだった。
この金楽寺への付き添いが、俺が、俺と同じ目と耳を持ちながら、俺とは全く違う思考と生き方をした下坂部鏡子という女に巻き込まれ始めた、その最初の出来事なのである。
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