咄、彼女について

□稀人・其の十五
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 腕の鈍い傷みが意識と共に徐々にはっきりとしたものになる。
 恐らく此れは腫れ上がるなと、俺は目を開いた。
 伊作の身動ぐ気配を近くに感じた。妙に霞んだ視界に映った俺の指先は震えているが、動くとは思う。
 鏡子の奴は、加減も何もない等と悠長な事が俺の胸中に過れば、ふと同時に、俺に向けられた、あのふやけきった様な嬉しげな微笑みが甦り、俺は嫌悪の様な、其処に安堵の混じる様な、悲しくなる様なもやもやとしたものに胸を満たされ、それを吐き出すために、息を吐いた。
 起こそうとした体は、酷く重い。

 震える腕を睨み付けた瞬間、だった。

 体中に、鋭い矢が勢い良く突き通ったかの様な緊張が走った。

 遅れてそれが、耳に届いた、多分三治郎の、鏡子を呼ぶ声の為であると気付いた瞬間には、俺は完全に身を起こし、目を見開き、鏡子をその目に見ようとさえした。

 その事に、舌打ちをしたい気分ではあった。
 が、その前に、俺の身体は既に動き出す。

 保健室の開かれた戸の前に立ち尽くし、其処から涌き出る暗雲に呑まれかけているように、俺にはそう見えた鏡子が、俺を振り返るのが自棄にゆっくりと見えた。
 音の無い唇が、「留三郎」と、動いたのが分かる頃には、俺は鏡子の腕を引き倒している。
「惜しい」と、尾浜、いや、左の呟く声がした。
 目の前で鏡子を食い損ねたその暗雲に俺は意味が無いだろうが腕を振り回す。
 三治郎が駆け寄ってきて同じ様に錫杖を振りながら俺達はそれから距離を取った。

 米神が割れる様に痛い。
 無数の虫の羽音が響き、耳が可笑しくなりそうだった。
 三治郎がジャンと錫杖を打ち鳴らし床を突けば、暗雲の動きは一先ず止まる。
 だが、退くことは無い。
 虫の羽音を響かせながら徐々に膨れ上がっているそれは、やがて弾けるのだと、強烈な予感に、俺の肌は粟立つ。
 引き倒した鏡子は俺に引き摺られてる間、ずっとだらりと身体を床に投げ出していた。

「おいっ!しっかりしろっ!!あれはなんだ!?」

 ぐったりと力の抜けている身体を引き寄せれば、鏡子は焦点の合わない目をうろうろとさ迷わせている。

「抜かった……」

 と、震えた声が、白い唇がそう言った。
 三治郎が俺に「こ、です」と短く呟いたが、何の事であるかは分からない。
 ただ米神の痛みに、目の前に見えるものが(およ)穏当(おんとう)とは言い難いものである事が分かった。
 鏡子は、俺に引き寄せられたままに力なく俺の胸元に身体を凭れて、肩を震わせながら引き釣った息をしている。
 まるで熱病に掛かったか、重傷人であるかの様な息遣いだ。

「…………あれの名を全部掴めていなかった。こりゃ不味い」

「だから、()が残されたと」

「……バチを当てたつもりかもね。術が無くなったんだ。餓えた獣の鎖を外しちまった様なもんだよ」

 鏡子と三治郎が交わす言葉の意味はやはり良く分からない。
 鏡子の目は、閉じるのを堪える様に瞼さえもが震えている。
 俺が思わず肩から腕を回してしまえば、うっすらと笑みを浮かべた。

「おい、あれが弾けたらどうなるんだ」

「良くて狂うか、最悪死ぬかだね、」

 私が、と、付け足した鏡子に、俺は「阿呆か!」と怒鳴っていた。
 何が『良くて』だ。だが、その達の悪い冗談めかした言葉が全く冗談でも無いことも悔しいことに良く分かる。
 鏡子はまたうっすらと笑みを浮かべる。

「ああ、留三郎の怒鳴り声は久しぶりだぁ」

 満足気な、柔らかい溜め息の様な声。

「阿呆か!」

 それに、また怒鳴ってしまっていた。
 鏡子は身体に回された俺の腕を小さく叩く。

「大丈夫さ、多分ね」

「お前の大丈夫程信用ならんもんは無い」

 腕をほどけという意味だったろうそれを、俺は無視した。
 俯いた鏡子が、溜め息の様な息を吐く。もしかしたら、笑ったのかもしれない。

 弾ける。

 俺は、鏡子を引き寄せ、後ろへと隠そうとした、その瞬間だった。

 物凄い勢いで、何かが飛び込んできた。
 それを見て、俺は呆ける。いや、俺でなくともそれを見れば誰もが呆けるだろう。

 それはバレーボールだったのだから。
 砲弾の様な勢いのそれは、暗雲を貫き、跳弾し、棚を倒し、

「「ぐべっ!!」」

「伊作っ!数馬っ!!」

 仙蔵の声に振り返れば、伊作と数馬が倒れた棚の下敷きになっている。
俺は鏡子を放り出し、伊作の元へと飛び出していった。
「ひでぇなあ」と、床に倒れた鏡子が笑い混じりに言う。
 バレーボールが貫いた瞬間に、暗雲は跡形も無く立ち消えていたのだった。

「おお、すまんすまん!」

 其処に現れたのが、件のバレーボールを打ち込んだろう小平太で、それに続いて、文次郎や、長次も部屋へと踏み込んできた。

「台風一過の様だな!」

 自分も原因の一端の癖に小平太の表情は晴れやかなもので、然しその晴れやかさは随分に久しぶりなのである。
なはははと笑う小平太も、鏡子を静かに抱き起こす長次も、呆けた顔で部屋を見渡す文次郎も、細かい傷だらけで泥々に草臥(くたび)れている。

「なんだ、小平太。やっと目が覚めたか」

 伊作らを棚から助けるのを手伝おうともせず、仙蔵が小平太に話し掛けている。

「文次郎らとやり合ってる内にな、変な夢を見ていたみたいだ」

 小平太がそう話す所によれば、俺が尾浜もとい左を追い始めた後に、文次郎と長次と揉み合いになり、散々に暴れまわる内になんだか頭がスッキリしてきたそうである。
 散々に暴れまわった件に俺は伊作と数馬の背中を撫でながら溜め息を吐いた。また修補、修補の繰り返しだ。いや、その前に委員会の後輩たちに頭を下げなければ。

「それで、なんか嫌な感じがして保健室まで来てみたら黒くてでっかいのがいたからアタックしてみたわけだ」

 ケロッと言ってのける小平太がそら恐ろしい。忘れかけていたがこいつはそういう奴だった。

「流石だねえ、小平太。ついでに、」

 鏡子が、長次の膝に頭を持たせながら指差したのは青い顔をした左である。
 保健室の戸に手を掛け恐らくは逃げ出そうとしていた。

「あれも殴っといておくれな。左の爺ぃにもう用は無い」

「分かった!!」

「まっ、まてっぬし!まっ、げふぅっ!!」

 保健室前の廊下から庭へと尾浜の身体が弧を描いて飛んでいく。
 俺は心の中で手を合わせた。
 仙蔵は実際、手を合わせていた。

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