咄、彼女について
□稀人・其の十四
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私、立花仙蔵は、霊だとか妖だとか凡そこの世の不思議と思える様な奇々怪々なる事象に関して興味はあれど全く以て感応する部分を持たない凡夫である。
何の因果か、私の同輩達にはそういう手合いを見たり聞いたりする者が多いが、私に至っては見えも聞こえも感じる事もできないのだ。
そんな私の事を、下坂部鏡子は、私にとってこの世の不思議を練り上げた様なあの女は、『中々いない凡夫様』とひねくれた皮肉で呼ぶのである。
然しそんな凡夫でも、今、この状況が喜ばしいか否かぐらいは、手に取る様に分かるのである。
鏡子が、伊作に口吸いをした。
否、正確に言うのであれば、酒を、鏡子が言うには御神酒を口移しで飲ませた。其れだけでも中々に衝撃であったが、その現場に転がり込んできた二人の人物。
留三郎と、天女様、坂上桃花は蒼白に呆けた顔で其処に立ち尽くしている。
修羅場、等と揶揄する言葉が一瞬、私の脳裏を駆け抜けたが、茶化す程には空気は軽くない。
鏡子の方と言えば、悪びれる様子も無く、にっこりと、それは嬉しそうな笑みを浮かべて留三郎を見ているのである。
彼女の、留三郎に対する感情の種類というのは、私には時折図りかねるものがあった。
恋情と呼ぶには重く、憧憬と呼ぶには暗く、執着と呼ぶには虚しげ。
ただ、今、鏡子の笑みは、純粋無垢な喜びしか無く、それが私に薄ら寒いものを感じさせるのである。
チャリ、と、錫杖の音がした。
一年は組の夢前が、「あ」と小さく震えた声を出す。
何を見たのかと、聞こうと思った矢先、私の肌がぞわりと粟立つのを感じた。
これは、殺気か。
目が勝手に動く。
留三郎、否違う。
坂上桃花だ。
あの他愛の無い少女が。
何たる目を、している。
陰惨で残虐な、目だ。
昔一度見た、般若の面そのものの様な。
だが、違和感があった。
それは正しく面の様であり、まるで、皮一枚、別のものが被っている様な。
その表情に注視していれば、坂上桃花の唇が、めりめりと音を立てるように開きだした。
それにも、違和感。
まるで、当人の意思とは関係なく動いている様に、私にはそう見えた。
「殺して」
坂上桃花は、そう、言った。
蒼白な顔の、目の縁に涙が浮き上がっている。ガタガタと震える腕が、指が、上がり、指し示したのは。
「殺して」
鏡子である。
部屋の空気の、重さが増した。
私は、反射的に鏡子の前へと出ようとした、が、それを止めた腕がある。
振り返れば、尾浜が、否、『左』が剣呑な表情で首を横に振った。音の出ない唇が『あの娘に任せておけ』と私に言う。
また肌が粟立つ。
再び殺気だ。
今度のは質が違う。
確実に相手を殺す、その手立てを知る者が出せる気だ。
「……留三郎っ!止せっ!!」
左の腕に抑えられながらも、私は思わず叫んでいた。
留三郎が、鉄双節棍を構えている。
その構えには一分の隙も無く、身を焦がすほどの殺意だけがあり、反して鏡子を見据える眼は虚ろだ。
尋常ではない。恐らく、留三郎は正気ではない。
「留三郎っ!」
無理矢理にでも左の腕から逃げようとすれば逆に引き倒され床に押さえつけられた、なんて力だ。
鏡子は、と、私は圧迫に咳き込みながら彼女を見上げる、其処で、思考は止まった。
鏡子のその横顔から、目が離せなかった。
鏡子は、微笑んでいる。
常白い頬は上気し、桃の花弁の様に色付いて、色の薄い唇ですら艶のある紅に染まっていた。
瞳は潤み、柔らかに細められ、留三郎を見詰めていた。
私の肌は、先程よりも粟立つ。
それは、今部屋に満ち満ちている殺気に対して、あまりにも不釣り合いな笑みだった。
私のこの震えは何処から来るのか。
ふと目を巡らせれば、夢前と、三年の三反田は伊作を抱えて部屋の隅に縮こまっている。
彼等が、鏡子を見る表情は、恐らく私の表情と同じであろう。
「観音に生娘の笑みじゃな」
左の声が、私の頭上から落ちて来る。
成る程な、と、私は妙に冷静にその言葉に納得した。
観音の慈愛と、生娘の恍惚。
恋情と呼ぶには重く、憧憬と呼ぶには暗く、執着と呼ぶには虚しげな、鏡子の感情。
それは、多分、狂気と呼ぶのが最も馴染むのかもしれない。
「…………私を……殺してくれるのかい、留三郎」
鏡子の声は、上擦り、震え、じっとりと湿っていた。
「……ああ、でもね。それは叶わないんだよ」
これ以上の幸福は無い様に微笑む鏡子の、目から一筋、涙が流れた。
それが合図かの様に、留三郎が、彼の鉄双節棍が鏡子へと襲い掛かる。
「鏡子っ!」
棍の動きに合わせ、鏡子が踏み込み、身体を低く、留三郎の脇をすり抜ける。
闇夜の様な黒髪と、涙の残像が流れた。
彼女はそのまま三歩、床に転がる愛用の長柄を手中に修め、振り向き様に、留三郎の腕を強かに打つ。
鉄双節棍が音を立てて床を滑っていく。
鏡子は、そのまま踵を返し、二歩。
坂上桃花の眼前で、
真っ直ぐに長柄を横に払った。
ぎゃあ!
と、つんざくような叫声。
坂上桃花ではない。
もっと、不快な、耳にこびりつくような声である。
ばたり、と、床に何かが落ちた。
男の、老年の男の、
腕、だった。
それを見た瞬間、頭が真っ白になった。
あの、下坂部鏡子って女が、伊作に、キスをしていた。
いったいどうして。
なんで、だって……彼女は、留三郎が好きなんじゃなかったの?
重なった顔と顔。
目を逸らしたいのに、その光景に釘付けになって身体も動かなくなってしまった。
彼女は、下坂部鏡子は、ゆっくりと伊作から身体を離すと私を見て、笑う。
何を、笑っているの?
まるで、まるで勝ち誇ったみたいな笑顔。
私の真っ白になった頭は、その笑顔を見た瞬間、ばっと赤黒くなった様な気がした。
耳の奥で、心臓がドキドキと煩い。
最低な女だ。下坂部鏡子は。
心臓のドキドキと一緒に、そんな囁き声が聞こえる。
下坂部鏡子は、ああやって、色んな男をたぶらかした。伊作も兵助も、文次郎も……そう、立花仙蔵もだ。
息が勝手に荒くなる。首筋が熱い。私は、多分、凄く怒っている気がする。
「……許さ、ない」
と、私の唇から掠れた、殆ど息みたいな声が溢れた、その瞬間だった。
首筋に何か、触れた。
私の肩がびくりと震える。
冷たい、此れは、人の手だ。
私の首を、後ろから包むようにした、嗄れた感じのするとても冷たい手。
叫び声が、出ない。
振り払いたいのに、動けない。
……殺せと言え。
耳元でまた誰かが囁く。
カチャカチャと、爪が当たる音に、ゾッと背筋が冷たくなった。
視界がどんどん狭くなる。
私の目には、笑っている下坂部鏡子しか見えなくなった。
……殺せと、言えば、そうなる。
助けて。
と、言いたかったのに、
「殺して」
と言っていた。
唇に、冷たい指が触れている。
嗄れた声が、笑う。
この声は、どうして、神様。
下坂部鏡子に向けて伸ばした腕は、勝手に、指をさす形になっていた。
助けてと、叫ぼうとしたのに、また口からは「殺して」と声が落ちる。
違う。
違うの。
こんなの私じゃない。
「ぎゃあっ!!」
私が叫んだと、一瞬そう思った。
でも、違った。
そう気付いた途端、パッと視界が開けて、目の前に、床に、何かが転がったのが見えた。
それは、切れた、腕、だった。
「いっ、いやあああああっ!!」
やっと出た、此れは私の叫び声。
「あああああ!……あがっ!?」
何、何が起きたの?
頭が、背中が痛い。
私は、誰かに、床へ押さえ付けられている。
「ああ、なんともはや……」
神様の、声がした。
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