咄、彼女について

□稀人・其の十二
1ページ/2ページ


 声に形があるとしたら、今の三治郎のそれは(たけ)()える虎だろう。

「流石、播磨の山伏」

 なんて、鏡子先輩は笑う。

 普段はあれ程穏やかににこやかなのに
、まだ、一年生なのに、『末恐ろしい』とはこういう事を言うのかもしれないと、僕は、「うっ」と生唾を飲む。
 立花先輩も三治郎を見て小さく唸っていたが、僕の唸りと立花先輩のそれは多分意味が微妙に違うんだろう。

「の、息子です」

 そう事も無げに答えた三治郎は保健室の戸を閉めようとする。
 先程の虎の咆哮に一斉にたじろぎ後退したそれらから、閉める瞬間に戸の隙間へと手が伸び、挟まる。

「しつけんじゃダボ!!」

 またも国言葉で吠えた三治郎の錫杖が、指が六本もある赤黒いそれを打てば、あっという間に霧散した。
三治郎はばんと音を立てながら完全に戸を閉める。
『ヤバイと思った時は取り合えず凄め』は鏡子先輩の教えだが、それを此処まで見事に体現できる三治郎は本当に凄いと素直に思う。
 しかし、再び丹色(にいろ)の糸へと意識を戻したろう背中は激しく上下している。息が荒くなっていた。あの三治郎がだ。

「数馬。簀巻(すま)きには触れるでないよ」

当の教えの張本人の先輩は珍しくも鋭い響きのある声だ。
 僕の手は止まる。いや、確かに触ろうとしたのは軽率だったのかもしれない。

「それが、伊作……かね」

 鏡子先輩の発言に背筋が一気に冷たくなった気がした。
 先輩には何が見えているのか、あの不思議に青く光る様な目をすっと細くして、部屋の真ん中に転がされた簀巻きを見ている。

 保健室は、多少散らかってはいるが、僕の周りには薬研や包帯巻き機、薬棚がある何時もの風景だ。
 なのに、見慣れた筈のそれらが急によそよそしいものに思えてきてしまう。

 壁一枚向こうから、無数の何かが睨む視線を感じる。
 僕の背を、嫌な汗が伝った。
 戸がガタガタと震えだした。

「戸が揺れているな」

 立花先輩が呟いた。
 やや白い顔をしてはいるけれど表情は何時もと変わらないように見える。
 見えないというのは強い。

「仙蔵、簀巻きを取ってくれるかい」

「何かあったら責任を取れよ」

 此処で初めて少しだけ顔をしかめながらも、鏡子先輩の頼み通りに、立花先輩はそのどす黒いものに手を掛けた。
 本当に、見えないというのは強い。

 戸がバンッと叩かれる。
 三治郎の真言(マントラ)を唱える声が少し大きくなった。

 鏡子先輩は胡乱(うろん)に涼しい顔をしている。ちょっと矛盾がある様な表現だけれども、まあ立花先輩と同じく何時もの表情という事。
 『凄め』の教えからも()して量れる事だけれど、鏡子先輩はそれらの手合いに関しては随一の腕前でありながら、その実その手腕は結構雑というのか、力任せなんである。
 強い故かもしれないけど、まさか簀巻きにして強奪(ごうだつ)とは、僕なら到底考え付きそうにもない。

 簀巻きが外された。
 戸は何度も何度も叩かれる。
 僕は、息を呑んだ。

「あやぁ、」

 鏡子先輩が呟く様に言った。

「こりゃ、なかなか……悋気(りんき)に情欲に呪詛(じゅそ)に……()(わら)はくびり殺されるえ」

 部屋の隅に胡座(あぐら)をかいた尾浜先輩、いや、「左」がそう言った。

「おい、しっかりしろっ、伊作!」

 立花先輩がやや切迫した声で揺する、『それ』は、伊作先輩なんだろうと思う。
 身体中が、暗闇に浸された様に見える。
 顔は勿論の事。腕が何処やら、頭が何処やらもはっきりと分からない程だ。

 投げ捨てられた布団の、どす黒いそれがざわざわと蠢いたかと思えば、伊作先輩へと向かっていく。
 質量は無い、ぺたりと薄く這うように動くそれが、何であるか気付いた。

 それは、影だ。
 自ずと動く、影だった。

 影の端は細かく割れていた。
 揺れるそれは手の様でも、蛇の様でもある。
 影が大きくうねる。
 人の形になった。

 女の人、だった。

「せいっ!!!」

 鏡子先輩が掛け声と共に、女の影を何時もの長柄(ながえ)で叩く。
 降り下ろされた長柄がガンッと床に当たる音と共に、つんざくような叫び声。

「なっ!?女の悲鳴っ!!?」

 立花先輩に聞こえた。
 つまりは鏡子先輩の言葉を借りるなら「相当にヤベぇ」という奴だ。

 女の影はざざざと床を這い、戸口へと向かおうとした。

「逃がすかよっ!!左!!」

 鏡子先輩がそう怒鳴るや否や、左は胡座を崩し、腰を浮かしながら床を足で叩く。
 ダンッという音と共に女の影は引き釣った様に動きを止めた。

 僕は再び、息を呑む。

 床に広がるその影が、徐に身を起こそうとしている。

 腕が浮き上がり床をガリガリと掻きむしる。肩が出て、振り乱した髪の頭が出る。

 顔は見えない、黒い影のままだ。
 だが、振り返ったそれが此方を、鏡子先輩を睨んだのは分かった。

 僕は顔も分からないそれが誰なのか、何故か分かる。

「…………て、天女様、」

 僕の声は震えて掠れて、小さかった。

「もういっちょおっ!!」

 なので、それは、長柄を奮う鏡子先輩の掛け声に、いとも簡単に掻き消されたのだった。

.
次へ
前の章へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ