咄、彼女について

□稀人・其の十
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 鏡子と仙蔵達が部屋に戻って来た。

 私はやれやれと息を吐く。
 そして、私が何かを言う前に、その存外に高い背を幾ばくか草臥(くたび)れさせた鏡子に向かって松葉の背中が詰め寄っていくのだった。

「おい鏡子!話の途中でいなくなるんじゃねえよ!!」

「んな厳めしい顔を近づけんでおくれな文次郎……悪いが私にゃあ心に決めた相手が」

「じゃかましいっ!!さっさとこれを何とかしろ!」

 その様な会話が、ジャンジャンジャラジャラと響く算盤の玉を揺する音を被せながら聞こえてくる。

「……文次郎、怒鳴ると、余計に五月蝿い」

 私は思わず苦言を述べてしまった。
 先程までは少しましだったのに、どうやら文次郎の気持ちの高ぶりと呼応している様である。
 部屋に集まっている後輩達も皆げんなりとした顔で文次郎を見ていた。

「文句ならこいつに言ったらどうだ!!この間からジャラジャラと付きまとって離れやがらねえ!誰も取れねえのか!?」

 ジャラララララジャンッ!!と一際激しく音がして、文次郎は苛立った様子で空を腕で切る。
 ジャラン、ジャランと音は文次郎の回りを付かず離れず移動するかの様に、私の『耳』には聞こえた。

「潮江先輩、五月蝿いですよぅ……僕、頭痛くなってきました」

 一年ろ組の鶴町伏木蔵がちょんと唇を尖らせている。
 彼は、後輩の中でも中々に肝の据わった質の様だ。
 鏡子の方と謂えば、何時ものあの胡乱(うろん)なにやにや笑いで文次郎を見ているだけ。
 一年は組の夢前三治郎も何処か楽しげに文次郎を見上げている。三年は組の三反田数馬は少々困り顔だ。そして、『目』も『耳』も持たない私の同輩、い組の立花仙蔵、五年ろ組の鉢屋三郎は怪訝な様子で、げんなり顔の私達と、尚も苛々と空を払い続けている文次郎を見ているのであった。

「何を一人で踊っているのだ、文次郎……鍛練のし過ぎで頭の(ねじ)を落としたか?」

 仙蔵のこの発言には多分に皮肉が混ざっている。
 文次郎が最近、碌な鍛練等していないことは同級である仙蔵が最も分かっている筈だ。
 現に、早くも息を上がらせ、肩をがくりと落としている文次郎に落とす仙蔵の視線は谷川よりも冷ややかなものである。
 然しながら、やはり情としてその様子が気に掛かるのだろう、やや不安げに眉を潜めて、ちらりと鏡子を見やるのである。

 鏡子は、その目線に気付いているのかいないのか、部屋の片隅にいる三年ろ組の神崎左門に目をやる。

「左門、お前なら取れん事もないだろう」

 中々に無体な事を言う。と、私は頬の傷が引き釣るのを覚えた。
 私などは、この文次郎の姿を、近しい後輩である神崎が見ていることすら如何なものかと思っていたというのに。

「長次ぃ、怒らんでおくれよ。私が嫌な奴なのは今に始まった事じゃねぇだろう」

 神崎から目を離さず、鏡子が私に言った。

 ……いや、お前は嫌な奴ではない。嫌な奴であろうとしているだけだ。
 私はその言葉は口には出さず、頬の傷を撫でるのだった。

 神崎は、目を潤ませ、然し唇は堅く引き結んだ険しい表情をしている。

「…………潮江先輩が僕の尊敬する先輩足らしめる方に戻って頂けるのならば」

 絞り出す様なその声に、膝を着いた文次郎がはっと表情を堅くした。
 ジャ、と算盤の音一つ、それからはふと静かになった。

「ああ……お前は良い後輩を持ったね文次郎。得たくても得られるもんじゃないよ」

 鏡子がにっこりと笑う。

「お前はそれをむざむざ溝に捨てるってのかい?」

 文次郎は堅い表情のまま左門を見ている。暫時(ざんじ)、沈黙。
 やがて、深い深い息を吐いた文次郎は、ゆっくりと鏡子を見上げる。

「こいつを取れ」

「頼み方ってもんがあるだろうが」

 鏡子は笑顔だ。きゅっと細めた目で文次郎を見下ろしている。
 然しながら、あまり機嫌は(よろ)しい方では無さそうだった。
 普段から白い顔が、今日は一等に蒼白に見える。
 やはり、それは、少々草臥れている様にも見えたのであった。

「…………取ってくれ、頼む」

 文次郎の声は掠れていた。
 神崎もまた、鏡子をじっと見る。

「…………やれやれ、」

 鏡子はすとん、とその場に膝を落とすように座った。
 それから、伏せた目をきっと文次郎の肩に向け、色の薄い唇を開く。

「誠に御苦労であった……さ、どうぞ此方へ参られよ」

 そう囁き、鏡子は柔らかな手付きで己の膝をポンポンと叩く。

 すると、ジャランと音がして、

「ほれ、放れたよ」

 私は目を瞬いた。

 鏡子の膝の上に、小さな小僧が座っている。
 身の丈三、四尺ばかり、年の頃で言えば五つか其処らに見えるが、やや大きめに見える頭に着いた眼はぎょろりとして、口はきゅっと横に伸びた、魚か蛙を思わせる様な顔立ち。
 胸元には算盤を抱きしめる様にして持っている。
 鏡子がそのつるんとした頭をくりくり撫でれば、小僧は猫の子の様に目を細めた。ジャランと、その小僧から音がする。

「算盤ちゃんは、文次郎が好きなんだよねぇ」

 趣味が悪い。と、呟く鏡子がにやりとすれば、文次郎の眉間に皺が一本、二本と寄る。

「鏡子、そいつはなんだ」

 どうやら仙蔵にも、そして鉢屋にも見えているらしい。ぎょっとした顔で、小僧を見ている。
 小僧は、鏡子の膝の上で上機嫌そうに脚をパタパタとしている一方で、その顔は不均衡に表情に乏しい。
 ポカンとしている様なその顔立ちはおかしみを感じなくも無いのであるが、尋常(じんじょう)の者でないのは一目瞭然であった。

「あやぁ、文次郎から聞いた事はねえのかい。この子は、会計委員会憑きの算盤ちゃん」

「算盤、ちゃん…………まさか……算盤小僧か?」

 仙蔵はやや絶句している。

「文次郎のつまらん冗談だと思っていたぞ」

 私もそれに同意の頷きを返す。
「所がどっこい、」と、鏡子がその小僧の頬をつつく。
 柔らかげな頬がふにっとへこむとほんの小さくジャッと音がして、仙蔵と鉢屋の目が更にぎょっと丸くなる。恐らく私もだ。

「……文次郎の奴が最近ちっとも算盤弾かねぇもんだから、算盤ちゃんもご立腹だった訳さ」

「…………良く言うぜ、そいつをけしかけてきたのはそっちだろうが」

 文次郎がぼそりと呟けば、鏡子の眼が再びきゅうっと細くなる。

「何か言ったかい、文次郎」

「…………いや、」

 文次郎は忌々しげであった。
 然しながら、それは随分と久方ぶりに見る、我らが見知った潮江文次郎の顔であった。

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