咄、彼女について

□稀人・其の九
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 先日、八左ヱ門が回復し、兵助が委員会へと戻った。
 そして、今日、下坂部鏡子からまた呼び出しが掛かった。

「あやぁ。鉢屋」

 部屋を整えている折りに現れた下坂部鏡子に、私は舌を打ちそうになるのを寸前に堪えた。
 今日は運が無い。この女と二人きりになるとは。
 私は最低限の礼儀としての、申し訳程度の会釈だけしておいて、後は黙々と部屋の準備をする。

(せわ)しいねぇ。手伝おうか」

「お気遣いなく」

 少し食い気味にそう言えば、下坂部鏡子はあっさりと退いて、私が敷いた座布団のひとつに座り込んだ。
 勘右衛門はなんでいないんだか……ああ、それもこの女のせいかと、私は、何時の間にやら湯飲みをひとつ取って何のつもりか繁々と眺めているその、胡乱に白い顔を見た。
 すると向こうも、重たい前髪の下から此方を見返してきた。

「……天女様への次第はどうですか」

 聞かずもがなではあったが、聞いておく。すると、下坂部鏡子は、
「うん?」と怪訝そうに小さく唸った。

「天女様がどうって、何がだい」

「いや、ですから、対処の次第はどうですかと聞いているのですが」

「んぁ?」

 間抜けな声を上げながらポカンと口を開けて私を見てきた。
 その表情に一抹の腹立たしさを覚えながらも、私は珍しくも忍耐強く下坂部鏡子と対峙を続ける。

「貴女が、天女様をどうにかすると仰った筈ですが」

「はぁ、言うたかねぇ……」

 下坂部鏡子はやはり、人を苛立たせるのは得意な様だ。
 湯飲みを妙にそろりとした手付きで下ろしながら、私をキョトンとした顔で見る。

「私は、伊作をどうにかせにゃあとは言うたよ。その為に天女様については調べにゃならんとは思っているが……まあ、正直、伊作さえ戻ってくれりゃあ別にどうでも良いわな」

「は?」

 今度は私が呆ける番だった。
 下坂部鏡子はゆらんと立ち上がると俺の前に立ち塞がる様にして此方を見下ろし、にやっとあの薄気味悪い笑みを口許に浮かべた。

「伊作の(たが)が外れちまってる事ぐらいさね、私が気になってんのは。別にあいつらぁ、天女様の側で良い気分なんだから、それを構う気はないよ」

 微かに傾げた下坂部鏡子の白い首に、黒い髪がゆわんと揺れる。
 私の頬は、ひくりと震えた。

「…………雷蔵は、本当に心から望んでる訳じゃない。あの女に操られてんだ」

 私の口調は丁寧さを欠きだす。最も、数年前の私は、この女に丁寧な言葉など持ち合わせてはいなかった。

「ふぅん、鉢屋にはそう見えてんのか」

 何処までも人を食った様な態度に、それを見上げる私の腰は僅かに浮いた。
 机に腕を着き、下坂部鏡子を睨み上げる私の表情は、雷蔵なら決してしないであろう剣呑(けんのん)さに満ち満ちていると思う。

「どうにかすんのが、あんたの役目なんじゃないのか」

「あや」

 下坂部鏡子の目はキョトンとした風情で瞬かれる。

「私の、役目……?私の役目は『それら』を祓う事さ」

 下坂部鏡子の眼がきゅっと細くなる。
 怪訝な表情に見えるその顔を、私は胸が居心地悪くざわつくのを感じながら見る。

「天女様は……どうやらただの娘さんだ。私は人をどうにかするこたぁできんよ。人が人をどうこうするなんざぁ、烏滸がましいとは思わねぇのかい鉢屋は」

「……あんたは何を言ってるんだ。それを坂上桃花がやっているから全てが可笑しくなってるんじゃないか」

「鉢屋にはそう見えてんのか」

「じゃあ、あんたには一体、何が見えているんだ」

 下坂部鏡子のすがめた目が少し緩く開かれる。
 その瞳が、青くぼんやりと光った様に見えた。

「鉢屋ぁ、私は狭量なのさ。私にはただの娘の天女様を構うよりも、今此処に、周りにいる奴等のが大切なんだ。そう、一応お前の事もね。だから、な。鉢屋」


 それをお離し。

 と、下坂部鏡子の声が、奇妙な残響を持って、耳の奥にじわりじわりと染み込んでいく様に聞こえた。

「え」

 私の目は手元に落ちる。当然、私の手は急須を、掴んでいる、筈だった。

 手の中でくしゃりと潰れた感覚に、びくりと震えた指から落ちたものを、一瞬、理解ができなかった。

「え」

 地に落ちている。
 小さな鳥の、死骸。
 指の間に挟まった細かな羽。

 そして、

 背後に、何かがいる。

「おっと」

 下坂部鏡子の手が私の頭に乗り、私の身体が思い出したかの様にカタカタと震えだす。

「振り向くなよ」

 言われなくとも。
 背後から聞こえる、「ふーっ、ふーっ、」とした剣呑な息遣いと、噎せ返る様な血生臭い、獣臭い匂い。
 カチャリ、カチャリと鳴るのは獣の爪か。

 そして、今、気付いた。
 此処は部屋でもなければ学園でもない。

「なん、でだ」

 何故、私は、裏森なんかにいる。

 下坂部鏡子が、あの何時も持っている棒術用の長柄(ながえ)をとんと、湿った地面に突き立てた。

「八左ヱ門を食えなかったからって、見境ねぇ奴等だわな」

 そしてしつこい。と、下坂部鏡子は色の薄い唇をちょんと尖らせ、(おもむろ)に、私の背後の空気を払う様にぶんっと、私の頭上を掠めながら長柄を振るった。

「ギャンッ!!!」

 獣が叫ぶ声。私の肩が跳ねる。

「逃げるぞ鉢屋ぁ!!」

 そう下坂部鏡子は怒鳴るや否や、私の腕を掴み上げ、木々の間を飛び抜ける様にして私を半ば引き摺りながら駆け出し始めた。

「だから!振り返んじゃねぇって!!」

 また怒鳴った。
 私は不覚にもびくりとして、此方を見てもいない、僅かに覗いた白い鼻梁(びりょう)に目を戻す。
 獣の爪の音と、唸り声は着いてくる。
 此方は全力で走っているのに、奇妙な事にその足音は酷く緩やかな、ヒタヒタとしたものでそれが寧ろゾォッと背筋を寒くさせた。


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