咄、彼女について

□稀人・其の七
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 川西先輩の話を元に、腕を掴もうとしたらあっさりと避けられた。

「ん?どうしたへいちゃん」

 宙を掻いた手をじっと見下ろす僕に降ってくる優しい声。
 見上げれば、声以上に優しい笑み。
 そう、姉上は優しい。だけど、僕が触れる事は嫌がる。
 姉上に触れた僕は、姉上の様に『見る』事ができるからだ。
 酷いときは、見たもののせいで魘されたり、寝小便の粗相をしたり。それを、姉上は気にしている。
 構わないのに、と、僕は思う。いや、粗相をするのは困るけど、それでもやっぱり、寂しい。

 姉上は、僕を静かに見下ろしていたが、やがてまた、壁に漆喰を塗り始めた。
 その動きは滑らかで、土が見えていた壁はあっという間に白くなっていく。

「富松先輩が、休憩しましょうって、」

「うん、そうか。呼びに来てくれたんだね」

「…………腕を怪我されたと聞きました」

 ゴトリと(こて)鏝板(こていた)に置かれた。
 手を前掛けでごしごしと拭きながら姉上は困ったように眉を下げて笑った。

「あやあ、左近の奴ぁ、話したんだね」

 大事ないよ、と、手をひらひらと振って歩きだす姉上に、僕は黙って着いていくのだった。

 それから二人で、黙りと歩く。
 伏木蔵からは「いっつも静かで仲良いのか分かんない」なんて言われるけれど、僕も姉上も口数の多いほうではないから何時ものことだ。
 今日は良い天気で、日影ぼっこが好きな僕達一年ろ組の生徒には眩しすぎる日だ。
 姉上も、以前食満先輩に「晴れた天気の良い日の似合わん奴」なんて言われていた。僕としてはそんな事無いのにと思うのだけれど。
 僕は少し前を歩く姉上を見上げる。
真夜中の空みたいな髪がゆわんゆわんと風に揺れて、日に透けて光る。漆喰みたいに白い顔まで日に透けていく様に見えた。
 姉上は、普段は割りに俗っぽくて、呑気で、普通に笑ったり怒ったりもするけど、こうして静かにしていると、そちらが本当の姉上の様に思えてしまう。
 いや、姉上、ではない。
 僕には、それが、誰も知らない、触れられない不思議な女の人の様に見えてしまう。
 そう思うと、姉上の手を握って、ちゃんと此処にいるのか確かめたくなって、でもやっぱり伸ばした手は然り気無く避けられて、僕達は結局また黙りと並んで歩いている。


 さて、用具倉庫の近くまで戻ってくれば富松先輩が此方へやって来るのが見えた。

「鏡子先輩、」

 眉を潜めて、少し慌てた様子の富松先輩は姉上の前まで真っ直ぐ走って来た。

「どうした、作兵衛」

 富松先輩は、辺りを見回すと、ヒソヒソとした声で「あの方が来ました」と言った。
 僕と姉上は、顔を見合わせる。

「あの方ってえと、」

「……坂上桃花さんです」

「あや。天女様かい」

 ぽりぽりと姉上が頭を掻けば、服に着いてい乾いた漆喰がはらはらと落ちていく。

「何しに来たんかいな」

「手伝いと、坂上さんは仰有ってますが……ですが、その……」

 富松先輩はおろおろと目をさ迷わして明らかに困りきった様子だった。
 姉上は何かを考えるように空を見るみたいに(わず)かに顔を上げて、暫くしてからまた富松先輩を見下ろす。

「分かった。取り合えず戻ろうかね」

「はい」

 少しほっとした顔になった富松先輩に着いていく形で歩いていけば用具倉庫が見えてきた。

「おやおや、お楽しみで」

 姉上が小さく笑えば「笑い事じゃねえですよ」と富松先輩がヒソヒソ声で言う。

「手伝うとは、仰有ってるんですけれど、特に何もなさらないで……何故かずっとああやって守一郎さんを構いたててるんです」

 富松先輩の説明通り。
 用具倉庫の前に詰んだ資材の側で、天女様が守一郎さんにずっと何事かを話している。
 にこにこと可愛らしい笑顔を浮かべて、指を守一郎さんの腕にそっと絡めるようにしながら。
 僕は首を傾げた。
 天女様のそれは、あの四年の斉藤タカ丸さんに、くのたまの女の子達がしている仕草に良く似ている。
 くのたまの女の子達はタカ丸さんが好きだから精一杯可愛く笑って、優しく振る舞うんだと孫次郎が言っていた。

「……姉上、天女様は、守一郎さんがお好きなんでしょうか」

「はて、ねえ」

 見上げた先の、姉上の白い横顔の中で、目がすうっと細められている。
 姉上が『何かを見ている』。
 僕はそっと、だらりと垂らされた指に手を伸ばした。

「へいちゃん」

 それは、何時もの優しい呼び方だったのに、ピシッと空気を打つような声だった。

「……お止め」

 見下ろしてきた目。
 無表情。
 思わず、肩が縮こまる。
 けど、一瞬の事だった。姉上は、またあの困った様な優しい笑顔になって「眠れなくなるよ」と小さな小さな声で囁いた。

 そうして、ふいっと、葉っぱが風に飛ぶみたいな動きで姉上は、守一郎さんと天女様に向かって歩きだす。
 僕はそれに着いていこうとしたら、しんべヱと喜三太が走ってきて、僕の前を塞ぐようにした。
 きゅっと二人の手が僕の手を掴む。

「はにゃあ、駄目だよ平太」

「……なんで?」

「三治郎が言ってたんだ。天女様には近づいては駄目だよって!」

「だったら、」

 僕の言葉は富松先輩が肩に置いた手に遮られる。

「うちの左門も似たような事を言っていたんだ。あいつが避けろなんて余程の事じゃねえと言わねえ。悪いことは言わねえから平太は此処で、」

「だったら、僕は尚更、姉上のお側にいます」

 お返しの様に、富松先輩の言葉を遮り、僕は守一郎さんと天女様の前に立った姉上の背中に向かって走り出すのだった。


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