咄、彼女について

□稀人・其の六
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 僕と立花先輩が食事を終えて向かうのは五年ろ組の竹谷八左ヱ門先輩の部屋だ。

 忍たま長屋の廊下の先に見えてきたその戸に、僕は眉を潜める。
 竹谷先輩は天女様が来て直ぐ、正確に言えば、伊作先輩が天女様に夢中になった直ぐに原因不明の熱病にかかって倒れていた。
 保健委員長の伊作先輩がそれに駆け付けない筈はなかったのに。今の伊作先輩は天女様以外の事は全て些末に見えるらしい。

「私は見えも聞こえもしないのだが、川西、何が起きているのだ」

 立花先輩が僕に聞く。
 羨ましい人だと、僕は思う。

「獣……が唸る様な声がします」

 一匹ではない、山犬か何かが唸る声と、それから大量の羽虫の羽音。
 うわーんぶわーんとした、耳にこびりつくようなその音に僕の首筋がぞわりと粟立つ。
 今朝といい今といい、基本的に『聞こえない』僕にまで聞こえるなんてどんな奴らなんだよ。
 竹谷先輩とくれば動物と相場は決まっていたけれど、話の通じない様な相手と対峙するなんて僕ならごめん被りたい。

 途端、足が重くなった僕を立花先輩が追い越し、全く持ってなんの躊躇もなく部屋の戸を開けた。本当に羨ましい人だ。

「鏡子、竹谷は」

「ああ仙蔵、思ったより早かったねぇ」

 部屋の中から聞こえる、僕と同じ、いや、僕以上の『目』と『耳』を持つ鏡子先輩は、変わらず呑気な声で、悔しいけれどその声にほんの少し気持ちが落ち着いた。
 僕は小さく息を吐いて、部屋に入る。

 部屋では竹谷先輩が布団にくるまって眠っている。
 病熱は下がってなどいないらしく、赤黒く上気した顔に眉根を寄せて息も荒い。寒気も感じているのかカタカタと細かく震えていた。
 いや、それ以上に剣呑なのが、

「微かだった唸り声が、今朝急に激しくなり出したんです」

 伊賀崎先輩が震える声で言った。声もそうなのだが、

「竹谷、しっかりしろ」

「あ、竹谷先ぱっ!?」

 竹谷先輩の側に寄っていく立花先輩に僕はぎょっとする。
 本当に見えないというのは凄い。止めようとした僕を手で制するのは鏡子先輩。

「仙蔵なら大丈夫だよ」

 その言葉通り、竹谷先輩の胸元に乗った巨大な(いわお)の様な真黒い山犬は、竹谷先輩の肩を擦る立花先輩などてんで無視して、僕達の方を睨んでいる。

「根負けしちまったかぁ、八左ヱ門なら大丈夫かと思ったが、このまんまだと中身を取られちまうねぇ」

 鏡子先輩は細い指で頬を掻く。
「言ってる場合ですか」と伊賀崎先輩が咎めても小さく肩を竦めただけで、部屋の角に目をやった。

「三治郎、木札はどうしたよ」

 部屋の角に、戸の直ぐ近く座っているのは一年は組の夢前三治郎だ。
 アホのは組の一人だが、この手合いに関しては悔しいことに誰もこいつには敵わないと思う。
 三治郎は印を組んだ手から顔を上げて目だけを鏡子先輩に向ける。

「幾つか置きました。でも全部割れました」

「あや、勿体無い」

 鏡子先輩は相も変わらず緊迫とは程遠い声で言う。然し、目線は決してその山犬から外さない。
 (おもむろ)に懐に入れてごそごそと探りだした。

「三治郎、錫杖持って来な」

「はい」

 三治郎はそろりそろりと立ち上がるとさっと戸の向こうへと走り出した。
 山犬が牙を剥いたのが見える。羽虫の音と、唸り声が先程よりも大きくなった。

「さて、」

 鏡子先輩が取り出したのは小さな巾着袋だった。中から出てきたのは細い煙管(きせる)
 白い指がくるりとそれを持ち、また巾着から取り出した小さな竹筒からさらさらとその中身を煙管に詰める。

「よぅく覚えときな左近、孫兵も。山のもんは、特に四つ足は煙草に弱い」

 打竹(うちたけ)で火を着け、鏡子先輩は煙管を吸い、ふうっと煙を吐き出す。
「お前、煙草なんて吸うのか」という立花先輩の声が妙に間が抜けて響いた。

 鏡子先輩が吐き出した煙は、ごく薄い紫色をしている様に見えて、それは生き物の様に、そう、蛇の様に山犬の体を取り囲む。
 ぐぐ、と苦し気な唸り声がした。

「竹谷、大丈夫か、おい!」

 唸っているのはどうやら竹谷先輩もらしい。

「仙蔵、竹谷の肩を擦っておいておくれな」

「ああ、分かった」

 あの立花先輩が、と思わなくもない光景だったが、そういえば一時期この人は生物委員会委員長だったよなあ、と僕は不思議な匂いのする煙を吸いながら思う。
 廊下からバタバタと足音。シャリンシャリンとした細かい金属音も聞こえる。

「鏡子先輩!持って来ました!」

「よしよし、入れ」

 三治郎が錫杖を持って部屋の内に入る。
 気が付けば虫の羽音は消えていた。
 残るは山犬の唸り声。

「三治郎は、叩くだけで良い」

「えっ、」

 怪訝な顔をした三治郎を他所に、鏡子先輩はやおら、煙を切りながら煙管をふいっと横に振る。

「っ!?」

 と、同時に僕は全身が総毛立つ様な感覚に襲われ、反射的に伊賀崎先輩の腕を引っ付かんで鏡子先輩から離れた。

 目の端にぞっとする程に真っ黒いものが過る。

 山犬だ。

 山犬が動いて、飛び掛かって。


「鏡子先輩!!」

「鏡子!?」

 煙管を持つ腕を山犬に噛ませながら、鏡子先輩は涼しい顔をしている。
 バタバタと床に落ちてきたものは赤い。

 立花先輩にもようやくなにか見えたらしい、腰を浮かした先輩に対して鏡子先輩は短く「動くな」とだけ言った。
 ぞんざいな響きのその声に、何故か僕と伊賀崎先輩までその場に縫い付けられた様に身体が動かなくなる。
 いや、目の前の光景に身体がすくんでいるのかもしれない。

 山犬の歯はぎりぎりと鏡子先輩の腕に食い込んでいく。

「はて、三治郎」

 シャリンと錫杖の音がした。

「私の腕が持ってかれちまうよぅ」

 なんでこの状況でこの人は笑っていられるんだろう。
 激しく唸る山犬よりも、にいっとつり上がった色の薄い唇から覗く真っ赤な舌に、僕はぞくりと身体が震えた。

 シャリンとまた音がして、固まっている僕と伊賀崎先輩の横を三治郎が駆け抜けた。

「どおおおりゃあああああっ!!!」

 まるで自棄(やけ)っぱちな掛け声と共に三治郎が錫杖を山犬の頭に振り落とす。

 ジャリンという一際激しい金属音。

 その一瞬の後に、真っ黒い山犬の身体はバラバラに解けていきながら霧散したのだった。



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