咄、彼女について

□稀人・其の四
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 私の記憶する限りの、下坂部鏡子に関わる最も古い記憶は、二年生時の食堂の事である。

 何て事ない昼食であった。
 午前の授業についてのあれやこれや、午後の授業に関してはふっとばして放課後に何をしようかといった相談、そんな話を友人達と交わしていた折り。

「お前、左だね」

 そんな声が聞こえた。
 女子の声だと思った私は反射的にその声の方向を見やる。
 くのたまは要注意。
 視線の先、絡まれているのは同学年の、組は違う奴だった。
 絡んでいる奴を見て、私は災難な奴とその名も知らない同輩に同情する。

 要注意のくのたまの中でも、最も要注意と噂されている『歩けば怪』。

 下坂部鏡子は、(およ)そ少女らしい愛らしさとは対局を成す様な胡乱(うろん)な笑みを浮かべながら、その同輩を見下ろしている。
 私のいる位置からは二人の横顔しか見えなかったが、見下ろされている同輩の顔は(わず)かに青ざめ、口は呆けた様に薄く開いていたのを良く覚えている。

「お前は、左だ」

 下坂部鏡子はまた言った。
 何の事だか分からない。
 見ていれば、呆けている同輩の手から箸がずるりと落ちて、机を転がる。その音が、食堂のざわめきの中でもやけに大きく響いた気がした。
 下坂部鏡子はそれが床に落ちる寸前に拾い上げ、同輩に手渡した。

「後でおいで」

 そう短く言って、下坂部鏡子は静かに食堂を立ち去っていった。
 残された同輩は、何事もなかった様に食事を取り始める。
 ものの息三十にも満たない様な間の出来事であったが、奇妙な違和感が残った。
 下坂部鏡子の『左だ』という意味不明な発言よりも、残された同輩に、違和感。
 目を凝らして見て、漸く気付いた。

 同輩は、今、箸で魚を解している。箸は右手で握られている。

 箸は、さっきは、左手から落ちていた。

 両利きなんてこの学園では珍しくも無いが、何故だかその事が僅かに引っ掛かりを覚えた。

 それから後に、私は絡まれていた同輩と委員会を同じくする様になり、そいつが五年い組の尾浜勘右衛門である事を知り、更には勘右衛門があれぐらいの時期にまる三日ほど姿を見せていなかった事を人伝に聞かされる事になる。

 そして、あの『左だ』という言葉の意味も、下坂部鏡子の得体の知れなさも思い知らされる事になるのだが、当時の私は、未だそんな事は知らず、迷い癖が愛らしい私の一番の同輩におかずを均等に分けるのに、感じた違和感などはあっという間に流されたのである。


 そうして、三年後。今、私は再び、まざまざと下坂部鏡子とその不可思議を目の当たりにしながら、それに巻き込まれていくのだった。

「タソガレドキから貰い受けた天女様についてさね」

 (とぼ)けた風情でそう答えた下坂部鏡子に私の片目が微かに痙攣した。

「貴女が、連れ帰った。ですよね」

 私がそう言えば、下坂部鏡子はふんと頷く。
 私の言葉にあった棘など(もろ)ともしない。

「然し、あんな広範囲で凋落(ちょうらく)できるたぁ、そないな術は聞いたことねえな」

 面妖だ、と、呟いた。
 どの口が言う、と、私は思った。

「まあ、それはいったん置いといて、だ」

 と、下坂部鏡子は見えない箱を置くような仕草をして私達をきろんと見渡す。
 この女は往々(おうおう)にして、人を食った様な言動ばかりである。

「先ずは、伊作が捕まっちまった事と、そのせいでうじゃうじゃ沸いてきちまったもんをどうするかだよ」


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