咄、彼女について
□御形の庭・其の七
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幼子の様に、鏡子と二人、手を繋いで何処へともなく歩く。
「里心」
ふと、鏡子の白い唇が開いてそう一言呟いた。呟いたんだと思う。
ただ、その声は何処かしら遠くから反響するように聞こえた。
その言葉に付随する様に、先程までの光景が立ち上ってくる。
背筋がぞわりとした、繋がれていない方の手を見る、大きく筋ばって傷もささくれもある俺の手だ。
その爪の間に土が詰まっているのに気付いて、またぞわりとする。
「掛け軸があったろう」
また鏡子の声。俺は頷いた。
「何の変鉄もない、里山の風景を描いたものだ。木立の中に、一件の家がある」
「留三郎」
鏡子が俺の手を強く握った。
隣を見れば青く光る様に見える目が俺をじっと見ている。
「掛け軸は、開かれてなかった」
「……あ」
そうだ、俺は、掛け軸を開いていない。
ならば、何故その絵が分かるのだろうか。
二人で立ち竦んだその瞬間、俺達の周りの、霞だけが立ち込める何もない空間が泡立つ様に立ち消え、代わりにバサリバサリというぞんざいな物音と共に別の光景が現れた。
「鏡子」
癪な事だが、俺の開いた口は隣の女を呼んでしまった。
両足が踏み締めているのは野の道だ。
頭上は秋晴れの空で、木立とそれに一件の家。何て事のない、里山の風景だ。
「お出でなすったねぇ」
行こうと手を引かれ、その家に向かって歩きだす。
一歩、二歩……五歩程進んだあたりで声が耳の奥で響いた。
『まあ、どこまであそんでいたの』
女の声だった。
肌が粟立つ程に柔らかで、優しさを煮詰め過ぎてとうとう毒になってしまったような声。
「鏡子」
「里心だ」
情けなくももう一度名を呼んでしまった俺に、鏡子が返したのは短い返し。
『まあどこまであそんでいたの、おなかすいたろう、なくんじゃないよ、ほらおいで、どこまで、すいたろう、おなかすいたろう、まあ、どこまで、なくんじゃないよ、なくんじゃないよ、なくんじゃないよ、』
うわんうわんと頭の奥を反響する声。
「それ事態には心は無い、描かれた時に生まれ、それを見る者の抱く心が育て、そして、」
家の、奇妙に空虚に見える家の縁側に、女が座っている。
俯き加減で、そして、膝に幼い子どもを寝かせて撫でている。
その子どもの、閉じても尚、きりりとした目元、黒い真っ直ぐの髪。
「きり丸に憑いて、必要以上に大きくなってしまったのだね」
鏡子の眼差しが陰る。
ぐっと眉根を寄せた白い横顔の、震える瞼が酷く悲しげに見えた。
『なくんじゃないよ、』
女が顔を上げた。俺は息を飲んだ。
其所に顔は無い。
其所にはのっぺりと白い、障子紙のように白い、肉塊しかない。
『まあどこまであそんでいたの、』
俺の肌がふつふつと粟立っている。恐れているのはその異様な風体ではない。
俺はその異形の女の事が泣きたくなる程に懐かしく愛しく思っている。
『ほらおいでおなかすいたろう、』
それが、恐ろしいのだ。
「そうさ。お前は人の心に必ずあるものだ。人が世に生まれ落ちる限り否定など出来ないものだ」
鏡子が懐から何かを取り出し、それにふうと息を吹き掛けた。
「然し、許せよ」
放られたそれは、薄黄色い花を着けた一本の野草、ゴギョウだった。
放られたゴギョウを女が両の手で受け止める。ほんの一瞬、それが小さなやや子になった様に見えた。
足元が崩れる。鏡子の手が離れた。
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