咄、彼女について

□御形の庭・其の六
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 目が覚めた俺が最初に気付いたのは、膝と頬を撫でる草と風だ。

 微睡む目を擦りながら身体を起こす。
 草いきれと風と柔らかい土の匂い、ああ、これは楓の木の匂いだ。俺は、楓の木の下にいる。

 里に生えているものでは一番古いのはこの楓だった。

 その匂いが胸の奥に膨らむ。
 膨らんだそれを吐き出せば、瑞々しい空気が頬の産毛を揺らす。昼寝から覚めた時みたいにとろりと緩く、寝起きの汗を風が冷やす。
 土がはらりと着物から落ちた。爪の先にまで、土が、俺の、指は小さい。

 名前を呼ばれた、気がした。

 ああ、呼んでいる、柔らかで胸の奥がまた膨らむようなそれに俺は笑っている。

 早くおいでと此方に伸びる腕に掴まる様にして、その少しささくれてでも暖かい手を掴んで、俺は、






「留三郎」

 氷の如く冷たく白い指で、俺の耳を引っ張られた気がした。

 目が動くままに動いて、其処にいるのを見た。


 蒼白な顔を切り裂く釣り上がった笑みと、ぎらぎらと光る目をした女を。

 途端、喉からせぐりあがる息。
 永らく止めていたみたいに喘いで噎せ返り、その場に崩れ落ちる。
 肩に乗った手を俺は力の限り払い除けた。
 重く不格好な音がして、あや、と、間の抜けた声が聞こえた。

「んな怖い顔をするなよぅ」

 手をひらひらと振りながら拗ねて唇を尖らせている下坂部鏡子を見る俺の眉間には、皺が幾つあっても足りないように思う。

「あれは、いったいなんだ」

「此処は何処かと聞く前に、かい」

 肩を竦めた鏡子。

 俺と鏡子は、暗い様な明るい様な曖昧な何もない場所に佇んでいる。
 地を踏んでいるのにふわふわと落ち着かない。

「聞いて分かるとは思わん」

「あや」

 鏡子が伏せがちな目を丸くして、それからきゅうっと細まる。
 その様が遠眼鏡を通したかの如く距離感すらあいまいで所々がぼやける。
 不快感に目を擦れば、俺の手をつっと鏡子の爪の先が撫でた。

「そいじゃあ、注意だけしておくよ。あまり考え過ぎるな。起きた時に頭痛になっちまう」

「やっぱり、夢か。此れは、」

「まあ、そう思っておくと良い」

 爪の先は離れる。

 白い唇が笑った。
 俺の目には珍しく優しげな表情に見えて、ほんの一瞬思考が途切れる。
 それに合わせるように、ゆらと揺れながら鏡子がぼやけた。

「おい」

 こんな奇妙奇天列な状況で、このまま消えられてしまっては堪らない。
 思わず手を伸ばせば鏡子の長いひんやりとした指が俺の指にするりと絡んできた。

「気をしっかりもっておくれよ、留三郎」

「……何がだ」

「私がいる事がはっきりとせんのなら、こうして手を握っておいとくれ」

 俺がその絡む指を握り返したのは、断じて本意ではない。置いていかれては困るからだ。

 綱に掴まる事とこれは同義である。

「よし、行くか」

「何処へ」

「決まっているだろう」

 俺の中では何一つ決まっていない。
 常こいつに掛けては決まっていると感じた事など殆どないけれど。手を引かれるままに俺は心許ない足を動かし始めた。

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