咄、彼女について

□御形の庭・其の五
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 伊作、長次、土井先生への聞き込みを終えた鏡子は、疲れた、と、一言低い声で呟きくのたま長屋の方角へと踵を返して歩き出す。

 地べたを這いずっているかの様に鈍重な歩き方。
 「きり丸は、」と問いかければ、「今日はやめ」と、白い手がひらひら揺れる。俺はその独りでに動く影法師そのものの背中が音も無く去っていく様をなんとなくぼんやり見送くった。
 夕闇とあいつの親和性はなかなかのものだ。それは幽鬼というよりは徘徊する夜行性の獣じみたものを感じる。

 夜の獣はひらりと塀を飛び越えて、近道を選び去っていく。
 俺も帰ろうと、六年長屋へ向かって爪先を向けた。


 長屋へ戻れば、既に同輩達が夕餉(ゆうげ)の真っ最中で、伊作が腰を下ろす俺に粥の椀を差し出しながら今日の次第を聞いてきたので、俺はある程度の簡単なあらましを伝えた。
 と言っても、長次や伊作は半分は承知の話であるし、然して物事は進んでいる訳ではない。

「なんだ、じゃあ結局はまだきり丸の所へはいってないんだね」

 伊作は少し拍子抜けした顔をした、他の奴等もみな同じ様な表情だ。
 特に、ろ組の小平太等は明らかに興を削がれた様子で軽く下唇を突き出して不満そうだった。

「なんだ。鏡子の奴、何時もみたいにズバッとやらないのか」

「つまらん、とか言うんじゃねえぞ」

 分かってるさ、と返す小平太は然し、口には出さずとも表情と態度と纏う雰囲気で饒舌に語っていて、俺は小さく溜め息を吐く。

「節を揃えなければ、きり丸に傷が着く」

 答えたそれは、鏡子の弁だ。
 自分の言葉の様に語ってしまった事に俺は眉間に皺が寄るのを感じながら、そうあいつが言った、と、つけ足した。

 部屋の隅で微かに鼻で笑う声がした。俺の眉間からは力が抜けることはない。

 その嘲笑にしか聞こえない笑い声の主、い組の文次郎は袋槍の刃先を細やかな手付きで手入れしている。

「なにが可笑しい」

 文次郎は、手を止め、鋭い目付きでにやりと笑う。

「すっかり言いなりか、情けねえ」

「……あ?」

 凄む俺に、「止めなよ」と口だけでも咎めるのは伊作だけだ。
 他の奴等はいつもの事だと思って傍観に徹している。事実何時もの事だ、然し、腹立たしい事に変わりはない。

「誰が、言いなりだって」

「そうだろうが。『目』も『耳』もある癖に使いこなせねえどころかびくびく怯えやがっ」

 皆まで言わせず、俺は文次郎の胸ぐらを掴み上げる。


「じゃあ、今この『目』で見えてるもん教えてやるよ。お前、それをどうするつもりだ」

 文次郎は、僅かに片目を、松の実の形をした左目を細める。

「……鍛練してりゃあ、その内消える」

 俺の腕を振り払い、文次郎は部屋を出ていった。

 そのやや不自然に動きの固い右腕には、黒焦げになった腕がある。
 爪の剥がれた指でしっかと文次郎の右腕にしがみついている。

 どの方向から見ても、腕のみしか見えないが、その節の細さから見て恐らくは女のそれだった。

「おい、仙蔵、最近お前ら戦地にでも行ったか」

「行ったが、なんだまた変なものでも連れ帰ってるのかあいつは」

 い組の仙蔵は呆れた様にそう言った。
 まるで道端で犬の子でも拾ってきたかの様な、そんなぞんざいで日常の延長から擦れる事もない声色だった。

 『鍛練してりゃあ、その内消える。』というのははったりでも何でもない。こいつらにとってそれらは取るに足らないものでしかないのだ。
 文次郎は何時でも全てを力業と精神論で押し通そうとし、それは決して全く不可能な事でもなかった。

 心底、不公平極まりないと、俺は苛立ちを押さえながら椀を洗いに立ち上がる。

 いっその事とり殺されちまえとまでは思えない自分は、確かに情けないのかもしれなかった。

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