咄、彼女について

□もう、
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 二年生は有り難い事に、午後から自習だった。
 松千代先生が、消え入りそうな声でそう言って、教室をもじもじと出ていったのと同時に立ち上がる。


「よっしゃ」

「どこ行くんだ、三郎次」

 呼び止める久作に俺は廊下に片足を出しながらふりかえる。

「今日、俺、委員会の掃除当番なんだ」

 直ぐに終わらせてくるから後で遊ぼうぜ、と、歩み出したらまた呼び止める声。

「三郎次、旧煙硝蔵には行くなよ」

 左近が少し眉を潜めながら言った。

「只の迷子なんだろ?」

 二年の付き合いだ。
 最初は不気味でしかなかったが、すっかり慣らされてしまっている。

「そうだけど、もう四日だ。長い分、余計なもんを呼んでるかもしれない。なんなら念のために四郎兵衛を、」

「あー、めんどいから良い。近づかなきゃ良いんだろ。分かってるって」

 まだ何か言いたそうな左近をほって、俺は廊下を歩き出す。
「近づかなければ大丈夫。」これは単純だが非常に正しいことを俺達は左近を通じて学んできた。

 何より、見えない聞こえない俺にとっては、今は早く仕事を終わらせて遊びに出ることがもっと重要だ。







 表に出れば、この間のどしゃぶりが嘘みたいな吸い込まれそうな晴天で、眩しさに目がチカチカした。

 ひとっ飛びに走ればやがて、白い壁が見えてくる。煙硝蔵だ。



 さっさと掃除してぱっぱと行こう。鍵を取り出して、まだ湿った感じのする(かんぬき)を外す。軋んだ音が耳を引っ掻いた。


「ん?」


 門が開く音以外に、何か違うものが聞こえた様な気がした。
 辺りを見渡す。なんだろう、風の音とも違う、これは。

 視界を巡らせれば、煙硝蔵の外壁に寄せて置いてある火薬の瓶に目が止まる。
 一抱えもあるそれは上の方が欠けてしまったから廃棄したもので、そのつるりと黒い表面を水滴がつうっと汗みたいに伝い落ちる。
 蓋も無い状態で置いてあったから中に雨が溜まってしまっているだろう。

 水を抜いておかないと持っていく時に手間だろうな、と思って俺は、その瓶に足を向ける、



 だけど、止まる。


 気付いた。
 変な音の出所は、多分この瓶だ。
 暫くそこに縫い付けられたみたいに突っ立ってた俺だったけど、好奇心と警戒心の天秤は結局、好奇心に傾いた。


 一歩ずつ瓶に近づくに連れ、その小さな音も少しずつ近づいてきて確信を得る。
 やっぱりだ。なんの音なんだろう。

 手を伸ばして、瓶の口に手を掛ける、じっとりと濡れていたけれど、思っていたよりは冷たさは感じなかった。


 音が止まる。

 一瞬の後、

 ヒュッという音が聞こえた。


 その瞬間、ぞわぞわとしたものが、俺の身体中を走る。
 急に瓶が冷たくなった様な気がした。


 何の音なのか分かってしまった。


 『息』だ。

 それはまさしくヒュッと、飲み込まれる息の音で、そして今再び聞こえだしたふつふつと泡が弾けるような音は、『声』、だ。
 瓶の中で、水の溜まった瓶の中で何ものかがぶつぶつと呟いている。
 そして、それは俺が瓶の口に指を触れた瞬間に一瞬、黙ったんだ。



 俺に、気付いて、息を詰めたんだ。



 動けない。
 耳を塞ぎたいのに、身体が固まってしまったみたいに動かない。
 そして、耳は勝手に音を拾おうとし出す。
 その声は先程からずっと同じ言葉を繰り返している。








もう、すぐ、もう、すぐ、もう、すぐ……もうす、ぐ、もう……すぐ、もう、すぐ、もう、








 限界だ。
 ばっと、俺は手を振り払うように瓶から外し、踵を返して走り出す。

「うっ、お、」

 誰かとぶつかった。
 尻餅をつきそうになる俺を支える少し節ばった白い手。

「どうした。三郎次」

 下坂部鏡子先輩と、その弟の下坂部平太だった。


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