咄、彼女について
□僕の姉上
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下坂部平太は、姉、鏡子の事を思う時、暗い井戸の底に映り輝く月を見た時の事を思い出す。
それは、この世に生を受けてたかだか十年程の彼にとって、事実あった出来事であるのか本当のところは曖昧ではあったが、確かに平太の思考では、鏡子とその光景は結び付いている。
静かな暗闇に浮かぶ柔らかな白い光、少し恐ろしく、然し、何時までも見ていたい様な。
だが、それは平太が一人思う時の鏡子の姿であり、実際の鏡子と謂えば、ごく穏やかではあるが人並みに喜怒哀楽もあり。食堂の献立ひとつで一喜一憂する様な俗っぽい一面もあるのである。
そう、今も、食堂の入り口手前、平太の隣で鏡子は昼の献立を眺めながらにんまりと顔を綻ばしている。白い指が、『芋の煮転がし』との一文を満足気に撫でていた。
「姉上、早く行きましょう」
袖を引けば、うん、と返事が返ってくる。食堂は既に混み始めていた。
食堂に入れば、視線。自分にではなく隣の姉に向けられているものだと、それが分かっている平太の、普段から塞ぎがちな表情は更に曇る。
向けられているものは、好奇、若しくは畏怖、若しくは、一抹の嫌悪。
鏡子の、目と、耳と、心が捉える『もの』について、
その視線は自分に向けられているもので無くとも決して居心地の良いものでは無かった。
鏡子は気にする風でも無く、食堂のおばちゃんに芋の煮転がしを二皿におまけしてくれないかと真剣に交渉している真っ最中である。
呑気な人だ、と、 平太は人知れず小さく溜め息を吐くのだった。
「ああ、平太、鏡子先輩、こっち空いてますよう」
振り返れば、ひらひらと手を振る平太の学友、鶴町伏木蔵。
「姉上」
平太は鏡子の袖をくいっと引く。
「うん、へいちゃん、ちょいと待ってね。おばちゃん、お皿洗い三日分でどうです?」
「そんだけ好きだって言ってくれるのは嬉しいんだけどねえ、今日はこれ、数が少ないのよ。だからほら、平等にしないと」
「平等」
鏡子は静かにそう繰り返すと目を数度瞬く。
「なら、仕方無いですね」
納得するものがあったらしい。
鏡子がへにゃりと笑って平太を見下ろしてきた。
「駄目だったよう、へいちゃん」
「僕のを上げます」
鏡子はゆるゆると首を横に振る。
「駄目だね。へいちゃんは食べて大きくならないと。お芋は美味しいけど、私はこれ以上大きくなるのは……ちょいと困るからねえ」
鏡子の頭の位置は見上げれば少し高いなと思う位置にある。平太の知る男の先輩達と比べても彼女は割りに背が高く、その事を本人も少しばかり気にしていた。
そんな『普通』の少女の様な面もあるのだ。平太以外で知るものは少ないだろうが。
「やあ、伏木蔵」
「今日は、鏡子先輩」
平太と同じ様な、健康的とは言い難い顔色で人懐こい笑顔を浮かべる伏木蔵。
よしよし、お前も良く食いなよ、と鏡子が伏木蔵の頭を撫でるのを平太はじっと見ている。
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