黄昏時忍軍忍組頭の嫁は少し無愛想

□犬も食わない・後編
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 さて、ゆのがくの一詰所にさくを訊ねて二日後の事である。
 その二日の間、ゆのが、何やら雑渡と密やかなやり取りらしきものをしていた事に、くの一の端くれであるさくが薄々気付いていない筈もなかったのであるが、二三回、顔を出す程度に屋敷へと帰って来る雑渡の表情にあのむっつりとしたものが消えていた事に安心し、深く追求はしないでいた。雑渡の仕事は、また最近になって忙しい様子である。
 そんな二日の後に、ゆのが再びさくを訪ねてきた。今度はくの一詰所ではなく、屋敷にいるところに訪ねてきた彼女は開口一番に件の縫い取りを見せて貰いたいと言ったのである。

「……ええ、どうぞ」

 この申し出は、この乳母やと、今は出払っている夫の間でのこそこそとしたやり取りに関係があるのだろうとさくは思い、小さく頷く。ゆのに茶を差し出してから、奥から行李を取りに行くさくは、放下師が披露する奇術の種明かしを待つような気分であった。
 行李を抱えて戻ってきてみれば、ゆのは小さな包みを膝に拡げており、それは化粧道具であったものであるから、さくはぎょっと目を瞬いた。

「まさか、着ろとでも言うのじゃないでしょうね」

 行李を下ろすのに躊躇われて、さくは、行李を抱えてその場に突っ立ったままにゆのへ問う。

「ええ、そのまさかにございます」

 返ってきた丸い笑みに、さくは微かな溜め息を吐く。ゆのは、益々笑みを丸くする。

「見てみたいのですもの」

 そうして、「ね、ね、」と、幼い少女がねだるような雰囲気でさくに向かって手を合わすゆのに、さくはまた溜め息を吐くのだが、それは先程と違い、柔らかい苦笑が混ざっている。
 それを好感的に見てとったのだろうゆのはついっとさくの手から行李を受け取り中身を取り出した。

「まあ、なんて……」

 取り出した途端、今度はゆのが溜め息を吐いた。
 壊れ物を扱うような手付きでゆのが拡げる小袖は、淡い紫に煙る白菫色(しらすみれいろ)の布地、織り模様が共色に施されてあり角度を変えると藤の影が淡く浮かぶ。
 その上に施された、藤花の縫い取り。地に溶け入りそうな牡丹鼠色(ぼたんねずいろ)の殆ど白に近い紫に、時折はっとする程に鮮やかな
花紫色(はなむらさきいろ)の糸が細かに袂と裾口に花を垂れさせている。
 さながらそれは朝霧の中に静かに咲き誇る藤そのもので、ゆのは、半ば唸り声の様な感嘆の声を密やかに上げた。

「まっこと、昆奈門様は、」

 其処から先の言葉は、ゆのの唇からは紡がれなかった。
 その代わりに、もう一度、はふと息を吐き、さくを見る。さくは観念したかの様な、仕方無げな苦笑の混ざる微笑みを浮かべ、「嬉しかったのよ」と、小さい声で呟く。

「本当に、ね」と付け加えたさくは乳母やの潤む目に益々苦笑し、今身に付けている小袖の帯を静かに解き始めた。
 ゆのは、厳かも厳かな手付きで、その襦袢の肩に、朝霧の藤花を被せる。
 背後で裄を整えているゆのがぐすぐすと鼻を鳴らしているのを聞き取り、さくはとうとうくつくつと笑い声を口の端から溢した。

「ゆのったら、何を泣いているの」

 ずずっとした鼻を啜る音がそれに答え、「何ででしょうかねぇ」とくぐもった声がする。
 振り返れば、ゆのは己の袂に顔を半分埋めながら、泣き笑いの形相であった。

「……あの時よりも…………昆奈門様の奥方に選ばれました時よりも、今がさく様が嫁がれる時みたいに思えて」

 さくは少し、目を見開く。「大袈裟ね」と、呟いたそれは然し、咎めるというよりも気の抜けた優しいもので。それから唇は花笑みを結ぶ。
 着付けを終える頃にはゆのは泣き止んで、今までに無いほどに真剣な面持ちでさくの顔に化粧を施していくのであった。

「ほら、さく様、とてもお綺麗ですよ」

 やがて、化粧も終わり、嬉々とした様子のゆのに傾けられた鏡に向かって、さくは曖昧に首を傾げた。
 首を傾けて漸く肩に被る髪。
 ゆのに施された化粧だ。その仕上がりは決して悪いものではない。
 それでもさくの目には、やはり尼が着飾ってでもいるような奇妙な女が此方を見返している様にしか見えないのである。
 鏡の中の奇妙な女が萎れた苦笑を浮かべたのを、さくは見て、思わずその笑みのまま、髪に手をやる。

「ありがとう」

 ゆのに、一先ずの礼を述べて、さくは立ち上がった。
 誰か来たようだ。
 呼ぶ声を聞いて、誰であるか分かり、袂を見下ろして一瞬、立ち竦むが、再び呼ぶ声がして、藤花を身に纏うさくは客人を迎えに行くのであった。

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