黄昏時忍軍忍組頭の嫁は少し無愛想

□月は登り、散る髪の黒
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※…流血、暴力表現あり


 宵待城(よいまちじょう)にて、壁を切り刻み記されたその文字を、さくは撫でる。

「私が行こう」

 迷いの無い、張り詰めた静謐(せいひつ)な泉に石を投じる様な、そんな声が、未だ血と死の匂いに満ちたその場に凛と響いた。

「ならぬ」

 その一石の波紋を打ち消さんがばかりの、重く、鋭い声。
 その声の主、黄昏時忍軍の高坂陣内左衛門の、その深々とした眉間の皺に、さくは目を移し、微笑んだ。

「さく様、」

 彼女の乳母やたるゆのは、その横顔に浮かぶ表情のあまりの柔らかさに息を呑みながら小さく彼女の名を呟いた。
 あの様な、ただの、なんの濁りの無い笑みは、もう見なくなって久しい表情で、この死地に()いてはあまりにも不釣り合いな表情であった。



「陣内左衛門。お前は戻りなさい」

「ならぬ。私が行く。罠であるかもしれないだろう」

「いいえ」

 詰め寄る高坂を、静かに見上げながら、さくは頭を振る。

「罠であろうがなかろうが、行くのは、私でないといけない」

「……ならぬ」

此度(こたび)の謀反の手引きにはつるの様が、結崎家が関わっていた。父上が殿軍(しんがり)を最期まで勤めあげたとて、」

 一瞬、言葉に詰まる。しかし、さくは、その目元に怒りの様な決意の様なものを光らせ、言葉を続ける。

「裏切り者の汚名は(そそ)がねばなるまい」

()れ言は止めろ」

 高坂の苛立った声がさくに刺さる。

 さくは静かに瞬きする。
 彼が自分に噛み付く様は昔から全く変わり無く、随分と懐かしく、此処が何処で、今が何時であるかを忘れそうになる程で、しかし、彼女はその瞳を揺らすことなく、また、微笑む。





「……ああ、戯れ言だ。それでも行く」


 高坂は彼女を見下ろしている。
 彼女の背を彼が追い越したのは、何時であったか。



「…忍軍の離反(りはん)にせよ、家老方との対決にせよ、その時にお前の力は必ず必要になる。だから陣内左衛門、貴方は戻らねば」

 高坂は黙って、彼女を睨み付ける。ずっと自分の前を進んでいた様な、何処までも忌々しい、自分の昔馴染み。


「……こんな形で、お前に認められたくはなかった」

「ずっと、認めておりましたよ。貴方の大切な組頭は貴方を一等大切にしていた」

 さくはゆのに目を移す。

「供はいらないわ。母上をよろしく」

 自分が泣いてすがって行くなと強いれば、きっとこの養い子は向かうことを躊躇(ためら)うだろう事はゆのには分かっていた。

 しかし、その目の前にあるさくの晴れやかさすらある微笑みに、ただ、頭を下げる。

「御夫婦揃ってのお帰りを、お待ちしております」

 微かに震える声が小さくそう言ったのを聞いたさくは花散(はなち)らしの風の様に駆け去るのだった。


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