黄昏時忍軍忍組頭の嫁は少し無愛想
□虜囚、悲哀か慈愛か、
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さくは母を降ろし、息を整えながら、自身の夫を見返す。
「使いを寄越したけど、入れ違いになった様だね」
そう、ゆるりと笑う、夫、黄昏時忍軍忍組頭である雑渡はゆっくりとさくに近付き、その僅かに上気した頬を優しく撫でるのだった。
すると、背後から、走り出る恰幅の良い女。
「さく様、貴方という方は本当に……」
ゆのは、しかし、それ以上はなにも言わず、ふわりと歩み寄ってきたさくの母、みゆきの手をその暖かく頼もしい厚さの手で包む。
「みゆき様、御無沙汰しておりました。御無事で何よりでございます」
みゆきはそれにゆっくりと頷く。
ゆのは、結崎家の分家に長く下女として仕えていたのだ。年頃も近い二人の女は、少女の頃は姉妹の様な間柄であった。
ゆのはその口許に、かつてのねえ様の笑みを浮かべ、みゆきを支える様にして歩き出す。
「さく様。後は私にお任せ下さい」
そうして、詰所の奥へと入っていった。
ざわざわと、人の話し声がする。
詰所には雑渡の通達により里の非戦闘員を寄せてあるからであろう。
「裏切りが出たとか」
と、口に出しながら、さくはその声に耳を傾ける。
かなりの人数が集まっている。
この通達は一見、慈悲的な様だが、彼等は恐らく盾なのだろう。とさくは憶測した。
本丸には忍軍を快く思わぬ家老も多い。武士と素波はそもそもにして相容れぬ事が多々あるのだ。
そうした者達の非難、果ては頭に血の昇る輩の大義名分を傘に着せた攻撃は避ける為なのであろう。
集まった里の者達には子供もいる。
戦の最中、そして、忍軍の者の裏切りという有事の際であれ、全くの非戦闘員である彼等を無体に傷付ける事は、里の者達の城主からの離反を招く事は容易に分かる筈だからだ。
城主にとって、戦よりも不都合な事は、領地の民が離れることだ。ましてや彼等は一国一城を落とす戦闘力を持つ忍軍の息が掛かっている。
それはある種、狡猾な考えではあったが、他者の心を利用し、刃で己の心を隠す者達にとっては、当たり前の事である。ましてや有事の際に善意のみの行為などは有り得ないのである。
しかし、目の前の男は、そんな薄氷の様な冷たさを微塵とも感じさせない雰囲気で、隻眼を笑みに緩ませる。
「うん。そうなんだよ。参ったもんだ」
ちょっとした雨漏りを憂いてるぐらいの軽い態度に、さくは僅かに眉をしかめる。
「笑い事では、」
「さく」
雑渡の眼差しに彼女は僅かに息を飲む。
自分をじっと見詰めているのに、何も見ていない様な、何処か遠くを見ているかの様な、その目。
貴方は、私を見ていない。
私は、貴方のその目の中にしっかと映り込んでいるというのに。
さくは手を伸ばし、雑渡の腕を掴む。言い知れない不安に居心地の悪さを感じた。
「私は、今から殿に会って来るよ。まだ御出陣まで間があるから」
針の山に、自ら足を踏み入れようと言うのか。
さくはその目の鋭さを強くして、雑渡を真っ向から睨み付ける。
「私も共に参ります」
「駄目だ」
返ってきたのは柔らかな拒絶だった。
雑渡の手が、風にざわつくさくの髪をゆっくりと撫で付ける。
初めて会った時から変わらない。
幼子を慈しむ様な手つき。
「君は、詰所にいなさい。待っているんだよ。後は陣内に任してあるから」
そうして、雑渡は振り返る事もなく、詰所をふらりと去っていく。
追い掛けようと思えば、無理矢理にでも着いていくと強いれば、
しかし、さくは、その高々数歩の距離に離れた雑渡の背中があまりにも遠い場所にあるように感じられ、只黙って、その影法師の様な背中を見詰めるしかできないのであった。
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