黄昏時忍軍忍組頭の嫁は少し無愛想
□女達は
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「母上っ!」
普段のさくを知る者からすれば、その動揺した表情に驚きを覚えたであろう、彼方の有明城からたつ黒煙を片目に置きながら、さくは小さな庵の中に走り込んだ。
座敷には布団から半身を起こした、母、みゆきがいる。
(さく、)
音の出ない口唇は、緊迫で震えている。
(有明の砦が、落とされたのですね)
「はい、母上。此処は危険です。逸く詰所へ参りましょう」
あまりにも軽い身体の母を抱え上げようとしたその瞬間、背後の障子がすたん、と開く。
しまった。
さくは背後に母を隠し障子を開けた者に対峙する。
動揺の余り、近付く気配に気付けぬ等、という悔しき歯噛みと、その思考はあの男を思い起こさせ自嘲的なものも浮かぶ。
懐に仕込んでいた苦無を構える、さくの視線の先に、不気味な男がいる。
顔は不自然に白く、美しい整い方をしているが、酷く作り物めいている。
はたはたと揺れる右の袖、隻腕だ。
音も届かぬ奈落がごとき目がさくを捉えた瞬間、男の口が耳まで裂ける様な笑みを浮かべた。
「覚えた」
確かにそう言った。
散々にひび割れたような、神経質でありながら、幼く無邪気な子供の様な響きの声に、意味は分からずともさくの肌が、ふつ、と粟立つ。
男はその一言のみを残し、ざっ、と立ち去っていき、絡み付く蛇の様な気配もまた消えさった。
さくは苦無を下ろし、握り直す。手が、身体中が、冷たい汗に濡れている。
あれは、何者だ。
追うべきか、否、今は母を、
「みゆき!」
切羽詰まった響きであった、しかしこの耳に馴染みのある声は。
さくは母を抱え、庭に出る。
「父上」
庭に走り込んできた結崎隆康が、みゆきと、それを抱えるさくの姿を見た途端、常より厳しく光る目に安堵に近いものを浮かべる。
さくはぎりっ、と唇を噛んだ。
「お前はそこで何をしている」
巌の様な顔は再び無感情な冷たいものへと戻り、さくを見た。
「見ての通り、母上を迎えに参りました。父上は、」
「嫡妻の安否を気遣うのは当然であろう」
さくの目に鋭さが宿る。
「父上」
隆康は無言で、自身の娘を見ている。
「私は父上の様な愛し方は致しません」
青白く光る程の怒りを溢し続けている様なさくだった。
「それで、良い」
ぼそり、と消え入る様な呟きであった。
目を僅かに見開くさくに隆康は背を向ける。鍛え上げられた、戦いの為の身体。
「みゆきを連れて、逸く戻れ。戦わぬ者は此処にはいらぬ」
大柄な体躯でありながら風の様に走り去るその背中は、あっという間に木々の間に紛れて消えた。
(さく、)
みゆきの眼差しが真っ直ぐに、彼女を射る。
(御父上は)
「母上。行きましょう」
しかし、それを遮り、淡雪の身体を揺すらぬ様、細心の神経を使いながら、さくもまた、走り出すのだった。
そして、たどり着いた詰所、その門前に立つ男。
「昆奈門様……」
「やあ、お帰りさく」
夫、雑渡昆奈門は、戦の最中である事すら忘れるような穏やかな笑みをその隻眼に浮かべて、静かに佇んでいた。
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