黄昏時忍軍忍組頭の嫁は少し無愛想

□胡乱な嘴
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 それは、彼女の記憶の中で、何度も反芻(はんすう)された光景だった。

 喉を押さえる白い腕、振り乱される黒い髪。


ー……御母様は、みゆき様は、貴女様を守る為に杯を飲まれたのです。


 その背後に立つ、美しい女の、青白い月のような笑み。



 場面は切り替わり、(いわお)の様な逞しい横顔の男にすり寄る美しい女。


ー…宗家が生き残る為には仕方ないとは言え、なんたる所業。

ー…しかし、隆康様はつるの様を受け入れなさいましたぞ。

ー…では、さく様のお立場はどうなるのです。


 父上。

 そう呼べば振り返る男が、自分に笑いかけた事など、記憶する限り一度も無い。


 私は、決して、父上の様な愛し方は致しません。



男が、(わず)かに唇を開いた。










「さく」

 ふいに掛けられた声に、彼女は、ひくりと、肩を震わせた。

「はい、なんでしょう」

 庭で、洗濯をしていたさくは、落ちてきた髪を耳に掛けながら、縁側に座る自身の夫を振り返る。

「いや、呼んでみただけ」

 黄昏時忍軍忍組頭、雑渡昆奈門は、そう肩を(すく)めた。 
 さくは少し首を傾げて、しかし、特に何も言うこと無く、(たらい)の中に手を突っ込み、洗濯を再開する。

「本日は、お仕事に行かれないので?」

「……うん、そうだね。そろそろ、行くよ」

 雑渡はのろのろと立ち上がり、さくの背後に近づく。すっと手を伸ばして、彼女の髪を撫でた。

「行ってきます」

「行ってらっしゃいませ」

 さくは、ほんの僅かに身を堅くした。
 ふりかえる事なく歩き出す雑渡の背後で、じゃぷ、と盥の中の水が音を立てた。













「……」

「組頭。お茶が入りました」

 黄昏時忍軍詰所にて、小頭、山本陣内は先程から、休みなく事務仕事をし続ける上司にそう声を掛けた。

「少し、休憩なされては、」

「ん。もう少し」

「はあ」

 山本は、文机にしがみつくように筆を動かし続ける上司、雑渡に、少々不気味な物を見るかの様な目を向ける。

 この男が、事務的な事に熱心に取り組むなど全くもって、珍しい事である。

 あり得ない程、珍しい事である。

「よし、終った」

「お疲れ様です」

 そうこうしている内に、雑渡は筆をからりと転がし、こきこきと首をならしながら、山本の前にずさり、と腰を下ろした。

「最近は随分と仕事に対して真面目ですね」

 不気味に思いながらも口に出した山本に、雑渡は事も無げに茶を啜りながら答える。

「そりゃあ、私もお嫁さんを貰った訳だし、何時までもふらふらはしてられんよ」

「それはそれは、」

 山本は、あの、すんとした表情の、見目は良いが愛想の無い女を思い浮かべる。
 さくちゃん様様という訳か、と小さく息を吐いた。

「……最近は、表情も出てきたと思ったんだけど、ねえ」

 虚空を巡る雑渡の黒目は、山本にはた、と止まる。

 ああ、そうか。 と山本は、思わず目を伏せる。
 彼女のあの無表情、無感情振りは余りにも板についているが、天然のものではないのに、この男は既に気付いているのだ、と。

「最近、会った頃に戻った気がする。開き掛けた扉がまた閉じたみたいな感じだ」

「……それは、」

「それは、やはり、先日の殿の御遊山(ごゆさん)での一件でしょうなあ」

 ひら、と面を揺らしながら、黒鷲隊小頭、押津長烈が扉から顔を出した。

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