黄昏時忍軍忍組頭の嫁は少し無愛想
□青い松葉と、黒い蔓
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手桶の水を捨てて、新しい水と入れ換えていれば、馬番が頭を下げながら通りかかる。
「どうも、暑いですなあ」
そのにこやかな声の裏に聞こえるのは、かそけき音。
(さく様、守備の程は)
と、その音は、取り決めに従い、彼女、さくにはそう変換された。
「ええ、ほんに」
(順調そのもの、後程報告します)
と、さくも言葉の裏に音を隠す。
(有り難う御座います)
そう返って来た音に、彼女は淡く苦笑した。
組頭の奥方であるというだけで、こうも扱いが変わるものなのか。
(これは仕事、礼はいりませぬ)
そう返せば、馬番は汗をふきふき、笑顔を残して立ち去っていく。
馬番が立ち去るのを確認した後、さくは徐に振り返る。
誰か、いるな。と。
見知った気配を感じたのだが、振り返った先には誰もおらず。確かめるか否かの一瞬の思案の後にさくは、否を選ぶ。
此度の仕事においては、知る必要のないこと、と、彼女はそう判断したのだった。
さて、次は厨の前でも通るか。
さくは、表情を切り替える。
あの無愛想な鉄面皮を忘れる程の、柔らかい笑みを作って、彼女は井戸から立ち去っていった。
「……では、私は、他の庭木を見て参りますゆえ」
「うむ。終わったら、給金を取りに、会計方に顔を見せよ」
「へい、では、家老どの、若様。失礼致しやす」
何度も会釈しながら、庭師、に扮した潮江はその場を立ち去る。
懐を上から触れば、張り子の犬の膨らみが指に当たる。
課題は完了した。長居は無用と言いたいところだが、
潮江はすっと、目を細めた。
あの女が、黄昏時がどの様な腹積りかぐらいは確かめておくべきだろう。
潮江は、女が立ち去った方へ、ざり、と、緩慢な動きで歩き出した。
暫く進めば、井戸で水を汲んでいる彼女の後ろ姿が見えた。
潮江は音もなく物陰に隠れ、その様子を観察する。
彼女がのろのろと井戸の滑車を引いていると、彼方から馬番がやって来た。
「どうも、暑いですなあ」
「ええ、ほんに」
女と馬番は和やかに挨拶を交わしている。
しかし、潮江の耳は、その言葉に隠れている微かな音を拾った。
矢羽か。
潮江は、眉間に皺を寄せる。
交わしているのは分かったが、かといってそれは、黄昏時の取り決めのもの。内容までは判別はできない。
やがて、馬番、恐らくは黄昏時の忍であろう男は、人の良い笑みを浮かべながら去っていく。
「……っ!」
女が振り向く素振りを察知した潮江はばっと身を隠す。
女から発せられているであろう視線は真っ直ぐに自分がいる場所に注がれている。
刺さる様な、もしくは絡み付く様なそれに、潮江の背中に、じた、と汗が滲んだ。
が、視線を向けられているだけで、それ以上の動きも無く、やがてはそれも彼女の気配もろとも立ち消えた。
潮江は密かに舌打ちをする。
気付かれている。
どうする。追うべきか。
「文次郎君、見っけ」
声に混ざる息の音も聞こえる程の近くから聞こえたその声に、潮江の心の臓は、冗談抜きで止まりかけた。
※:厨……厨房、台所
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