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□隙間から、染み透る。
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 櫛を商う我が家、みょうじ屋の裏手にある工房の通用口から、髪結い処の斎藤家長男タカ丸が勝手に入って来るのは頻度こそ少なくなったこそすれ、もうこれで何度目かと思える光景なのだった。
 だから、抱えの職人達も、そして私も、特に顔を上げることもせず……いや、抱え職人で一番古株の春吉爺だけが、砥草を扱う手を休ませる事も無くではあっただろうが、にこやかな声で、

「タカ坊。久しぶりやないか」

 と、タカ丸に声を掛けたのである。
 目の端に、派手な市松の着物が揺れるのが見える。

「うん。春吉爺ちゃん、久しぶりぃ」

 タカ丸は、一体喉の何処からそんなふにゃふにゃとした甘ったるい声を出しているのだろう。昔から疑問だ。

「なまえはいる?」
「お嬢ならぁ……ほれ、そこで歯挽きのもんらに混ざっとるわ」

 市松模様は動き出して、ふわふわと、蝶みたいに、私の直ぐ横にまでやって来た。
 私は、櫛の歯を作る鋸を止めて、顔を上げる。

「なまえ」

 甘ったれた声が、猫みたいな口に良く似合う。
 やれやれと小さく息を吐きながら、私の口許には思わず苦笑が浮かぶ。

「艶だしの所には近づくなよ。埃も立てるな」
「分かってるよぉ。ね、だからちょっとの間、此処にいさせて」
「ん」

 私が顎で示した工房の奥、店と繋がる廊下の角。仕上がった櫛が詰め込まれた綴が積まれたその横に、隙間に隠れる様に色褪せた茜色のお座布が置かれている。
 タカ丸の特等席だ。ある時は、ガキ大将の不況を買って半べそで、またある時は親に叱られたとムッツリとした顔でそこに座り込み、いつの間にか、確かそれを置いたのは母さんだったと思うが、件のお座布まで置かれる様になったのである。

 タカ丸は、ちらっとその特等席を見て、然しそこへと向かうことはせずに、ぺたんとその場に座り込んだ。

「此処。にいたいって、言ったでしょ」
「そうかよ」
「うん、暫く見てて良いよね?」

 へにゃあっ。と、そんな音すら立てそうな、上等すぎる蒸し饅頭みたいな笑顔と、その相も変わらずな無防御な図々しい甘えたれっぷりに笑わされてしまう。
 春吉爺はからからと笑い、周りの職人達も極静かだが穏やかな笑い声を立てた。

「タカ坊はほんまに、櫛作りを見るのが好っきゃのう」

 春吉爺は、寡黙な人が多い職人にしては珍しく饒舌で声も良く通る。
 静かに張り積めた工房も好きだが、そんな工房の空気を一気に色付けるみたいな春吉爺の声も、私は好きだ。

「うん、一枚の板が次々形を変えていくのを見るのが面白いし、何よりうちじゃあ、大事な御道具だしね。献上品のなんて、これに一体どんな御髪が通るんだろうかって、考えるだけでも楽しいなぁ」

 本当に心底楽しそうな声と表情で言うタカ丸に、職人達は皆面映ゆ気に笑うのだった。
 私もそれに笑みを浮かべながら然し、徐に手を伸ばしてタカ丸の着物の袖を軽く捲る。
 案の定、そこには普段はからげている袖を下ろしていた理由、ちらりと見えた腕に、巻かれた包帯。途端、タカ丸のふにゃふにゃした顔がさっと堅くなる。
 私はパッと手を離し、ごめん。と、口だけで伝える。タカ丸はそれに苦笑で答えた。

「好きなだけ、見ていけば良いよ」
「……ん、ありがと。にしてもなまえってば何時の間にか、歯挽きまで出来るようになったんだねぇ」
「そりゃあ櫛屋の長女ですもの」

 いや、『櫛屋の長女』はあまり理由にはなっていないか。
 私ぐらいの年頃の、商家の娘ならば、普通ならもう何処かへ嫁いでいる筈だ。それがなんでこんな職人の真似事をしているかといえば、まあ御察しくださいとしか言いようが無い。

「お嬢は筋がええから」
「爺の教えが良いんだよ」
「おう。そりゃ当然の話やけどな」

 私はぐぐっと腰を捻って姿勢を変える。動かない片脚も、長い間同じ姿勢でいると更に感覚が鈍くなってしまう。
 私の脚がこうなって、随分長い年月が経った。もう馴れてしまったし、こうして職人として働かせてくれた両親や、技術を仕込んでくれた春吉爺には感謝している。
 日々は充実していて別段不満は無いのだが、困るのは、そんな話題が出た時に相手が私の脚を見て、まるで痛むような申し訳無さげな顔をする事だ。そう、ちょうど今のタカ丸の様に。

「んな顔すんなよなぁ」
「あ。ごめん」
「謝られんのも逆に困る」
「もう。じゃあ、どうしろってのさあ」

 ただ、タカ丸に関してはこうした軽いやり取りにする事ができるのだからまだましだと言える。
 
「普通にしといてくれりゃ良いよ。タカ丸は能天気なのが良いところ」
「それ誉めてない気がする」

 きっとちょんと唇を尖らせてるんだろうタカ丸を私は横目に、再び歯挽きの作業に掛かり出す。
 タカ丸もまた、静かになって、気配すら薄くなった。
 なんだか、タカ丸は、最近になって、昔より雰囲気が静かになった様な気がする。
 そんな事を思えば、つい数日前にタカ丸がそっと打ち明けてきた事が、勝手に頭の中を流れていく。

 俺ね。忍者になるんだ。
 なまえだけには教えておこうって、思ったんだ。

 なんの冗談かと思ったし、未だに本気で信じてはいない。
 だって、タカ丸。あんた、言ってたじゃないの。
 幸隆さん以上の凄い髪結いになるんでしょう。
 私達が、私が作った櫛を使ってくれんでしょう。
 だのに、それから暫く、タカ丸は街で姿を見なくなった。奉公に出たと聞いてはいたけれど、たまに帰って来たかと思えばさっきみたいな良く分からない傷をこさえているのだ。

 本当に、何やってんの。こいつ。

 軋む様な、嫌な音が耳を引っ掻き、私の手は止まる。歯を入れすぎてしまった。少しだけ、でもこれはもう売りには出せない。私こそ、何をやってんだか。

 私は、鋸を机にそっと並べて、傍らの杖に手を伸ばす

「……爺、ちょっと私、外行って来て良いかな」
「おう。今日のお嬢は朝から詰めとったしな。行って来ぃ」

 春吉爺と職人達に軽く頭を下げて、杖を頼りに立ち上がる。戸惑った様な顔で私を見上げてるタカ丸に手を差し出した。

「あんたが奉公とやらに行ってる間に御寺さんの牡丹が満開になったんだよ。まだ見頃だろうから一緒に行こう」

 タカ丸は戸惑った表情を少し残したまま、ふにゃりと崩れる様な笑みを浮かべて、私の手を握る。
 その掌は以前よりも少し堅くなった様な気がするし、変な所に豆が出来ている。変わらないのは、やたらと暖かい事ぐらいだ。

「疲れたらおぶってね」
「勿論だよ」

 忍者になろうが、なんだろうが、いや、有り得ないと思っているけれど。まあ、とにかく何になっても、タカ丸は、タカ丸なのだから。

 だから大丈夫だ。と、そう思ってやることにしている。
 だからあんまり遠くに行くなよ。と、それは思っても意味が無いことだ。

「なまえの手、ガサガサだぁ」
「失礼な。櫛職人の有難い手だぞ。そう言うあんたの手も相変わらずだわ」

 だから、私はタカ丸のやたらと暖かい手を確かめるように握るしかないのだ。

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