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□とある風の強い日に
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どう、と一陣。

手から奪われたそれはあっという間に手の届かない所まで舞い上がっていき、矢鱈と青い空にちらちらと揺れるのを私は追いかけもせずぼんやりと見ている。

ああ、塀を越えて行ってしまった。

ちょっと面倒な事になったなあ、と私は独り、ふうと息を吐いた。

面倒な事になったと思いつつも、私は其処から暫く動けないでいる。
風はまたどうどうと吹き荒れて私の肩を押したから、仕方無いなと歩き始めた。

その時に、微かに、ざり、と地を足がする音。

音の方角に目をやれば、くのたま長屋と忍たま長屋の境界になる塀に腕をついてきょろきょろとしている男の子。



「あれま。」

私が思わず口にしてしまったら。漸く男の子は此方を見る。今日は本当に風が強くて、彼の重たげな、事実、量の多くて重たい髪をバラバラに巻き上げて、その下の白い顔に強くい並ぶ目が私を見た。

「これ、お前のだろ。」

彼、久々知兵助は、何時も何処か怒っている様な慇懃な所がある。代わりに周りがへらへらしているんじゃないかと思うくらいだ。(特に、何処ぞの女誑し髪結いと磯巾着髷の男が頭を過る。)

だからといって、本当に怒っているかといえばそうでもなく。今もじたりと睨む様に私を見ているが、暫時、違ったかと小首を傾げるなんて可愛らしい仕草をするもんだから、その妙に生真面目な感じに笑わされてしまうのだった。

「うん。私の。ありがとう。」

一言ずつ一歩を進めて、塀に飛び上がる。久々知は一瞬、目をすがめた。

「ほら。」

差し出された紙片はばたばたと久々知の手の中で暴れている。

「ありがとう。」

もう一度、礼を言ってそれを受け取り、空かさず久々知の腕を掴んだ。
襟口を引かれて、ぐぇ、と、小さく唸る彼に、そんなにさっさと行かなくたってと笑いかける。

「ほら、隣に座って。ちょっとお話しましょう。」

久々知は私を見上げて、また少しだけ目をすがめて、それから隣に座った。

「風が強くて嫌になる。髪があちこち絡まっちゃう。」

私が言えば、うん、と何処か上の空の返事。此方を見ない横顔はむつりとしていた。

あ、これは本当に怒っているのかもと思う。
思った矢先に、久々知は私を目で捉えて口を開いた。


「行くのか。」

そうだ、彼はとても素直な男だった。思った事はなんでもはっきりと言う。余りにも真っ直ぐだ。

風が彼の前髪を巻き上げる。額に薄い古傷がある事を、今、知った。

「なまえ。」

「御家の状況が変わったのよね。」

「何故言わなかった。」

「言ってどうにかなる訳でもなし。」

私は肩を竦めて笑う。私の手から逃げようとする退学届けを握りしめたらくしゃりと皺が寄った。

「あ、しまった。」

また書き直さないと。と、へらりとして言えば、久々知の口がぐにゃりとへの字になる。人形みたいな顔立ちなので動くと凄く大胆に見える。


「言って、どうにかなる、訳でもなし。」

もう一度、私はゆっくりとそう言った。

『皆で力を合わせれば』とか『強い気持ちがあれば』とかはもう幼い頃に何度も通り過ぎてやりきった物語だ。この世には儘ならない事が多いんだって事を、私達はこなしていかなくてはならない。

「ねえ、久々知。この傷どうしたの。」

手を伸ばして額に触れる。私の指に、風に揺れる黒々と艶のある髪が当たる。

「四年の時の実習で、多分。」

久々知は小さく呟いて私の指から逃げて、ぎろりと雲一つ無い空を睨んだ。手をもう一度伸ばしたらぱしりと掴まれる。

「雲の通い路を吹き閉じる所か、吹き飛ばす程の日だのに。」

私は思わず吹き出した。

「久々知ったら。そんな典雅な事が言える様になったんだね。」

「なまえはくのいちの癖して風情の無い奴だ。」

私のけらけらとした笑い声が風の音に掻き消される。久々知はほんの少し笑った様な気がして、でもまたむっつりと黙りこんだ。

「では、風情のある事を言わせて貰いましょうか。」

「……どうぞ。」

「此れから、強い風が吹く度に、貴方は私の事を思い出して下さいな。」

それで充分だと言い放ちながらも、私は久々知の手を払うことも出来ず、ただ風に吹かれている。


とある風の強い日に



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