いしゃたま!
□それからと、その先へと
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此れは、伊作君が後に私に語った事なのだけれど、彼は、私の両親に責められる覚悟だったらしい。
「大切な娘である貴女を妻とりたいと言いながらも待たせるだなんて殴られても仕方は無いと思ってました」と、伊作君は後に語った。
そう、彼が態々、染々と言ったという事は、実際は彼の思っていた様にはならなかったという事だ。
当時、父様から殴られる覚悟を一人抱えていた伊作君がそれでも、怪我が治った直ぐに真っ先に行こうと言ったのは私の実家だった。
そうして、私と、数馬と、そして伊作君と、三人で、三反田家にて両親の前へと膝を揃え、誰から話すべきかも分からない程に重たい沈黙の流れる中。
「「あの、」」
私と伊作君の声が被る。
母様がそれに小さく笑い、父様の厳しい顔も少しだけ緩んだ様に見えた。
「……先にちどりから話しなさい」
そう言った父様は、固く引き結んだ唇をふっと緩め、静かに閉じて、私が話し出すのを待つ。
「お願いがあって参りました」
私は指を着き、二人の顔を見上げる。
鼻の奥がツンと痛む感覚を抑えながら、乾いて縺れそうな舌を動かした。
「……学園長先生の御友人に、三河の国での奥医師の仕事をご紹介して頂きました」
「…………行きたい、と」
「はい」
また沈黙が流れた。
その長い長い沈黙の後、父様は小さく溜め息を吐いた。
「此処で、この町で、儂等の元で医者を目指すのは駄目なのか」
問いと呼ぶには弱々しい声をしたそれは、しかし、どんと私の胸を突いた様だった。
数馬が私の肩に手をそっと置いた。私は隣を見る。
心配そうな弟の顔に、大丈夫だと姉の顔で答える。
「私は、行きたいです」
「何故」
今後は私が息を吐く。
吐ききった息を吸って、吐いて。
「……医者としての私を求められたから、それに私は自分が何処までやれるのか試してみたいのです」
結局、それに帰着する。
医者として、人々を助けたいという気持ちは、私が私らしくあることを認めてもらいたいという気持ちと混ざり合っていた。
執着の様な感情だ。でもそれがあったから此処までやって来れたのだと分かる。
「父様は、私が薬を学ぶことを否定しないでくださいました。医者になりたいという世迷い事を笑いはすれど、決して止めろとは一度も言われませんでした。嫁に行けと言いながらも、私に、多くの薬と調合を教えてくださいました」
父様の腕がゆっくりと上がって懐に入った。
そこから出してきたのは、筋の張り出た荒れた手に握られていたのは、手拭い。
「父様、」
私は、自分の開いた口から言葉が出るのを待つ。
数馬の手が、私の手を握った。
私は、それを握り返す。
「……ごめんなさい」
握り締めた手拭いで目元を抑える父に、私はそう言った。
ふっ、という溜め息の様な笑い声がする。
「何を謝る馬鹿娘」
手が下ろされる。
其処にある少し滲んだ、然し射抜く様な眼差しが、私を見た。
「……子に行くべき道が出来たのを喜ばない親が何処にいる。それで泣こうが、嬉し泣きだ」
私は息を呑んだ。
「出立は何時だ」
「……っ、雪が降るまでには向こうに着いておきたいと、」
「なら、それまでに儂がまだ仕込んでない調合を全て叩き込む」
ぺしんと胡座を手で打った父様は、私を見てにやりと笑う。
「儂の教えは厳しいぞ」
「……知っています。昔っから」
私に頷いた父様は、今度は伊作君を見る。
「で、だ……」
伊作君の顔はきっと引き締まった。
「あのっ、僕、いや私はっ、」
然し、伊作君が何かを言う前に、父様と母様がその場に頭を下げたのである。
「えっ、えぇ!?」
「ちょっと、父さん、母さん!?」
伊作君と数馬の戸惑う声が部屋に響く。
「……皆まで言わなくても、大体は分かる。大方うちの馬鹿娘に着いていってくださるのでしょう」
「善法寺さん、どうかちどりを宜しくお願い致します」
「違いますっ!いや、違わないけど、とっ、とにかく顔を上げては頂けませんか!?」
伊作君の慌てた声に、微妙な早合点をした両親は怪訝そうに顔を上げるのだった。
「その、ですね……私は、ちどりさんをお待たせすることに、なるのです…………」
顔を上げた両親が、訥々とした伊作君の話を聞く。
「…………えっと、僕いや、私は、その、不運と呼ばれていて、加えてこの様な無謀な事を言い出している男なのですが、」
数馬が小さな声で「不運とか、余計な事は言っちゃ駄目です」と伊作君に囁けば彼の顔はカッと赤くなる。
「ですが、どうか、彼女と、ちどりさんと共にあることを許して頂きたいのです」
今度は伊作君が深々と頭を下げた。
父様も母様も面食らった顔をしていたけれど、やがて二人揃って仲良く溜め息を吐く。
「善法寺さん、顔を上げてくださいな」
母様が、柔らかな笑みを浮かべながら伊作君に声を掛ける。
再び見えた伊作君の顔は、まだ赤い。
「……一つだけ、私達に約束してくださいますか」
母様がそう言えば、伊作君が姿勢を正し「はい」と答える。少し掠れた、だけど、確かに響く声で。
「約束して下さい、決して、」
母様が言ったその言葉に。
父様の眼差しに。
伊作君はもう一度、然し、先程よりもはっきりと深く響く声で。
「はい」
と、答えた。
そうして、
「ちどりっ!ちどり、子犬を拾ったぁっ!怪我をしとるぞ!!」
土間の簾を蹴り飛ばす勢いだった。
いや、事実、その勢いに入り口に陰干ししていた薬草が籠ごと落ちた。
「十市丸様、前も言った様に、私は動物は門外漢なんです」
「異な事を言う。ちどりは漢ではないぞ」
「それは言葉の綾で……分かりました。とにかくお見せください」
新野先生への手紙を書いていた筆を一旦置き、私は小さな子犬を抱えた十市丸様、私が仕える城の若君様の側へと行くのだった。
季節は、今は夏。
私が畿内を発っての、三河での夏だ。
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