いしゃたま!

□彼と彼女と彼等のお約束
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 藤袴が長屋の庭に咲いている。
 私は縁側に腰を下ろしそれをぼんやりと見ていた。

 風があの白い糸を集めたみたいな花を撫でて揺らしているのを眺めながら、私は息を吸って、吐いて、それから立ち上がった。
 文化祭も終わった今日、私は、両親の元へ向かう。

 三河へ行く、その許可を貰うためにだ。

 くのたま長屋の通用門を潜れば、既に其所では数馬が待っていた。

「ちどり姉さん」

 そう笑いかけてくれた弟は、先日、私の三河の奥医師の話を私から聞かされた折りには「良いと思うよ」とあっさり頷き、絶対に反対するだろうと思っていた私をなんとも拍子抜けさせたのだった。

「姉さん、どうしたの?」

 数馬の前に立てば、怪訝そうに首を傾げた。
 私のモヤモヤと鬱屈としたものはどうやら表に出ているらしい。

「数馬は、反対しないのね」

 数馬は、ぱちりと目を瞬いて、それから困った様に苦笑する。

「ちどり姉さんは、止めて欲しいの?」

「……どうなのかしら」

 頭の中で、優しい声がした。
『行くべきだと思います』と笑う、優しい声が。

「取り合えず、行こう」

 数馬がそう私の手を引く。
 私はその手をしっかり握って、のろのろと歩き始めた。

 『行きたくない』と『行きたい』とが私の中をずっとぐるぐると巡っている。
 何時も、これはこうと何でもかんでもはっきり決められた私が、ずっと迷っている。
 止めて欲しい……のかもしれない。そんな気持ちは何処かにある。
 でも、誰かに止めてもらえたら『行かない』と言えるかといえば、それは、違うと思ってしまう。

 きっかけは初恋で、それから意地で、女だからと馬鹿にするなと息巻いて。
 思えば酷く下らないきっかけだと思いながらも、私の手が、技が、知識が誰かを少しでも救えると、そう思える事が何よりも嬉しくて、私を立たせるそれは背骨の様に真っ直ぐと貫いていて、そう簡単に折れそうにも無いのだった。

「ちどり姉さん、」

 数馬の声で我に返る。筆を差し出された。

「出門表」

「あ、うん」

 筆を受け取って、小松田さんが差し出す出門表に名前を書いた。
 小松田さんはにっこり笑って、いってらっしゃいと私達を見送る。私もいってきますと返すが、笑えそうにもなくて、なんだか情けなくなって俯いた。
 数馬が握ったままの手をぎゅっと握る。

「姉さん、」

「なあに?」

 数馬はまた困った様な顔で笑って、私の手をぶらぶらと揺らした。

「迷った時には、勇気のいる方を選ぶと良いんだって」

「え?」

「司馬法に曰く、進退は疑うなかれっ!って、左門の受け売りなんだけどさ」

「左門君の……」

 私は、ふと思い出す。
 学園に初めてやって来た時に、その道中で最初に出会ったのは左門君だった。いや、思いっきりぶつかって来られたんだけど……私はつい、小さく笑ってしまった。

「なんか、分かる……左門君らしいわね」

 そして、その左門君に引っ張られる様にして現れた彼もまた、思い出した。
 こんなことになるなんて、あの時は思ってもみなかった。
 彼を、伊作君を思い出した私の、胸の奥が苦しくなる様になるだなんて。

「僕は、姉さんが迷い無く幸せならばそれで良いんだ。それだけは絶対に僕の中では決まってるから」

 道端にまた藤袴が咲いているのを見た。
 風に揺れるそれの前を通り過ぎていきながら、私達姉弟は、手を握ったまま、ゆっくりゆっくりと学園から離れていく。

「……ん?」

 ふと、違和感。
 いや、違和感というよりも、

「数馬、そっちは方向が、」

 私の手を引く数馬は、分かれ道を右へと逸れていく。
 私達の実家がある町の方角とは違うのだった。

「ああ、此れで良いんだよ」

「え?」

 此方を振り返った数馬が、ほんの一瞬、むすりと顔をしかめて、それからにこりと笑った。

 その直後だ。





「七松先輩!お願いしまああああす!!」

「はい!?っでえっ!!?」

 いきなり叫びだした数馬にぎょっとした途端にぶんと反転し上がる視界。

「おっと、此れじゃ駄目だな!」

「おわっ!?」

 ぐるんと回転したかと思えばどさりと軽い衝撃。
 遅れて横抱きにされている事が分かり、それをしている人と言えば、

「なはははは!!役得だな!」

「七松君!!?」

 にかっと顔全体で笑う七松君が私を見下ろしている。

「じゃあ行くぞちどりちゃん!数馬も着いてこい!!」

「はいっ!」

「えっ!ちょっとなんな、のおおぉぉぉああああああああ!!」

 訳も分からぬままに、ぶんと振られて信じられない速度で流れていく視界。

 心の準備が出来なかった私は、息を詰まらせて、そのまま目の前はふっと暗くなっていく。

 七松君に連れられていくのは二回目だな。

 なんて事を思いながら私はそのまま気が遠くなっていくのだった。


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