いしゃたま!
□たった、短い言葉
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学園長先生の庵に待っていたのは、学園長先生だけではなかった。
私は其処にちょこなんと座られている小柄な尼僧様に一瞬ポカンとしてしまう。
「ああ、ちどりさん。先日はどうもお世話を掛けました」
「まあ……!お久しぶりです」
裏々山の尼寺の御住職にして元くのいち、青蓮尼様だった。文化祭に来られるとは伺っていたが、嬉しい再会だ。
青蓮尼様は、人をほっとさせる優しい笑顔で私を見た。
「なんじゃ、ミヅエ。ちどり君と知り合いだったのならばそうとあだだだだぁっ!?」
「青、蓮、尼、でございますよ。渦正殿」
青蓮尼様の手が隣に座る学園長先生の膝を強かにつねり上げている。
笑顔のままなのが中々に迫力があった。流石は山本シナ先生のお知り合いだけあるなあ、と、苦笑してその様を眺めていたら、「あら嫌だ」と青蓮尼様は手を離した。
「渦正殿。斯様にひいひいと情けない。ちどりさんが呆れていらっしゃるではありませんか」
「なぬ、そ、それはミヅエが」
「はい?」
「青蓮尼……」
「私が、何で御座いましょう」
「……なんでもないわい」
……くのいちの方が男に厳しいというのは何処でも一緒なのかしら。
何時も堂々とされている学園長先生が悄々としている姿は失礼ながら感慨深い。
目の前の光景に未だ苦笑してしまっていたが、学園長先生がぎろりと咎める様に私を見られたので慌てて表情を引き締めた。
「小松田さんからお急ぎの用と伺って参りました。何か、御座いましたか」
背筋を伸ばしてそう聞けば、学園長先生はうむと神妙に頷かれる。
沈黙が流れた。
ふと、庭の雀が飛び立つ羽音が聞こえる。文化祭の賑わいとは別世界の様に、此処は静かだ。
私はその張り詰めた真剣な空気に固唾を飲んで、続きを待つ。
飛び立った雀がまた戻って来た羽音がしたと思えば、学園長先生の唇がめりめりと開いた。
「……儂が、言わなければ駄目かのう」
「へ」
思わずかくんと転げそうになった。
学園長先生はもにゃもにゃと唇を気まずげに歪めながら青蓮尼様を見る。
青蓮尼様は深々と息を吐いた。
「当たり前で御座いましょう」
「だが、元はと言えば、ミヅ、青蓮尼が頼んだ事ではないか……」
「それで、ご提案なされたのは渦正殿です。ご判断致しますのは、ちどりさんです」
「いや、だから、それがだなぁ、あてっ!」
青蓮尼様がぴしゃりと一発、学園長先生の膝を叩いた。
それから「はい、分かりました」と学園長先生にゆっくりと言われ、私を見る。
この間の表情は、ずっと笑顔だ。底知れない方だと思っていれば、「ちどりさん」と呼ばわれて、私の背筋がまたしゃきっと伸びた。
「ちどりさんは、此処で医者の見習いを為されている」
「は、はい」
青蓮尼様は静かに頷きながら、「では、」と続ける。
「此処を離れ、一人前の医者となる気は御座いませんか」
静かな、凪いだ声が、囁くようにそう言った。
「………………え」
私は、その言葉が頭にうまく入って来なくて、間抜けな声しか出なかった。
「此処を……離れ、て」
繰り返してはみても、自分の声は何処か遠く、ふわふわと耳に頼り無げだった。
青蓮尼様は「ええ、此処を離れて、です」と畳み掛ける様に言って、私の目をじっと見詰める。
「三河の国のさる城に拙尼と知古の奥医師がおりまして、」
「三河……」
「ええ、その方がそろそろご隠居なさるのですが、後身の方を求めておりまして」
「は、あ……」
「腕は勿論の事、城主や家臣、奥の主である御内室、姫御前とも上手くやれる気概のある方が欲しいと、中々にこれがおらぬのですが、」
「あ、あの、待ってください!」
私は気が付けばそれを遮っていた。心臓がやにわに騒がしくなる。
「まさか、その後身、に……」
青蓮尼様はにっこりと笑う。
「渦正殿からお聞きした貴女の事を文に寄越したら、是非に会いたいとの返事が来ております。私も先日、貴女にお世話になり確信を致しました」
私の喉が、ひくりと震えた。
「貴女なら、任せられましょう」
「私が、ですか、」
「ええ、貴女がです。最も、貴女の御両親がお許しくださるかという事も御座います。お許しを得たとて先方でも修業をして頂くでしょうから直ぐに奥医師となれる訳では御座いません…………ただ、」
穏やかな笑顔の中で、青蓮尼様の目が、強く光かる様に見えた。
「向こうは、貴女が、おなごであることは問わないと言っております」
その言葉に、私の中で去来したものは、あまりの目まぐるしさにはっきりと言い表すことができなかった。
息苦しくて、見下ろした畳が滲んで見えていた、それだけが、漸く分かる事だった。
そして、今も。
伊作君の表情が良く見えない。
私は、しっかりと見ないといけないのに。
「ごめんなさい」
謝りたい訳でもなくて、きっと正しい言葉ではないのに。
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