理不尽に爛漫に/道理に叶って絢爛で
□惑う道筋その先へ
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少年と呼ぶにはやや幼く、赤ん坊と呼ぶには既に成りの出来上がっているその子どもは、茂みの中に石ころの様に踞っている。
視線の先、茂みの向こう側に大人達の黒い影が、大きな不思議な生き物の様に、子どもの目にはそう見えていた。
その影の中には子どもの父がいて、父の腕の中にはついこの間産まれたばかりの子どもの妹がいる。
夜である。
彼程の子どもは既に夢の中にいるであろう夜半過ぎだ。
無断で着いてきた事が知れたら怒られるかもしれない。と、子どもの幼い思考に一抹の不安が浮かんだ時、
ばしゃり。
重たい石を落とした様な水音が聞こえた。
川に手を突っ込んでいる、恐らく父。
子どもは息を詰め、青白い白目を光らせながらその様子をじっと見つめている。
やがて、川からその押し込んでいたものを引き上げて、それを対岸に埋める。
大人達は皆黙っている。
それを埋め終われば、黙ったまま、のろのろと重たいものを引き摺るように去っていった。
子どもは茂みから出る。
ぽかんと口を開けて、対岸を見る。そこには沢山の小さな土の膨らみがある。
冷たい水に、子どもは細い足を踏み入れる。
数歩、対岸に向かい歩んだと思った途端、
「あっ」
それが自分の声だと気づいた瞬間には子どもの身体は川の流れに浚われていた。
冷たい、
暗闇に浮かんだ言葉。
冷たい、冷たい、息が出来ない、
何が起きているのか理解する間もなく、胸の奥の奥までその冷たさに満たされ、私の意識はぶつんと途切れた。
私、
私は、
次に見たのは、濡れている、自分の手で、
其処を中心にして散々に途切れた意識は集まって来る。
膝をついている。
天も地も、右も左も灰色の様な白い様なぼんやりと曖昧な空間。
私、私は、誰だっけ、いったい、どうなったんだっけ?
ふっと、顔を上げる。
「……ん?」
目の前に小さな男の子がいる。
くりんとした大きな目が猫みたいな、可愛らしい顔をした子だ。
何処かであった気がするなあ、何処であったんだろう。
周りの空間みたいに私の頭も酷くぼんやりとしていた。
ただ、濡れているその子が寒そうだとそう思った。
でも、手を伸ばそうとしたら、私の手も濡れていて、ああ、意味無いわこれって、手を引っ込めたら、男の子はぷいっと走り出した。
「えっ!?ちょい待て!!そっちは駄目だろ!!」
ばっと襟首を掴んでその子を止める。
「……駄目なの?」
きょとんとした顔で見上げてくるその子が進もうとした先は奈落の底みたいに真っ暗だった。
「どう見てもやばいってあれ。行こう」
って言っても何処へ行くかも分からないんだけど、とりあえず手を繋げば小さな手が握り返してきた。手を引いて二人で歩き出す。
「お姉ちゃんはだあれ?」
お姉ちゃん、そうか、私は、女なのか、そう認識した途端、曖昧な意識が少しはっきりする。
ああ、そうだ、思い出してきた。
「お姉ちゃんは……そうだね、なんだろう。幽霊かな?」
「ゆーれー?」
「死んじゃった人ってこと、」
そう、死んだ筈なんだけどなあ。
なんでだろう。意識はどんどんはっきりしてくる。
「僕もゆーれー?」
「いや、知らんがな。……君、名前は?」
「きぃ。五つ」
表情の乏しいその子は、でも何となく誇らしげに聞いてもいない年齢まで指を出して示してきたもんだから私は、思わず笑ってしまった。
「どっちだよ」
指は四本しか出ていない。
ほけっと首を傾げるその子の髪から滴が落ちた。
「きぃは、なんでそんなに濡れてんだろ?」
いや、濡れてるのは私もなんだけど、考えて分かった事はさっきの冷たいのは水だったのかもってぐらいだ。
「いもーとを見たかったの」
「妹、を?」
「…………ととさんがね、いもーとを沈めちゃったの」
「…………っ、」
きぃのその言葉に、いきなり頭の奥に映像が強制的に捩じ込まれ、私はその場にへたりこむ。
中天の小さな月、感情を押し殺した暗い男の顔、冷たくて悲しい腕と、それ以上に冷たい、冷たい水が肺に満ちる。
直前の記憶……?
あれは、「父ちゃん」ではない。
それを確信すると同時にしかし、その映像も自分の身に起きた事だと理解してしまった。
散々荒唐無稽やらかしたからもう、何来ても驚かないと思ってたけど。
「だいじょーぶ……?」
少し不安気に眉を潜める、その五つだか四つだかの少年の、生まれて直ぐに死んでしまった、恐らくは間引きされた妹、それが私だってか。
理解するけど、納得するかは別だ、正直混乱している。
私はいったい、何なんだろう、
「大丈夫だよ、取り敢えず行こう」
でも、目の前の小さなこの子をほっとく事もできずに、私は、ゆっくり立ち上がる。
きぃが小さく笑ったから、多分私もちゃんと笑ったんだろう。
「どこにいくの?」
「出口」
「どこにあるの?」
「さあ」
「僕、死んじゃったのかなー」
「うーん……」
それはどうなんだろう?
立ち止まり、きぃと視線を合わせる。
「きぃは、どうしたい?」
「む?」
「きぃは生きていたいの?死んじゃっても良いの?」
「……分かんない」
うーむ。
チビッ子には難しい質問だったか。
「僕はいらない子かもしれない」
「どうして?」
「にぃにや、ねぇね達はととさん達の役にたってるけど、僕は違うから、だから、いもーとみたいに僕もいらなくなるんだよ」
「怖いの?」
きぃは、ぎゅっと唇を噛んで、私の首に取りすがってきた。
「それが、怖いって事は、まだ生きていたいんだよ」
きぃの頭越しに、ぼんやりと景色が浮かび出す。
川縁だ。
そこの縁に、小さな子どもが倒れている。
「僕だ」
私の腕にきゅっと手を置きながら、きぃが呟く。
「うん、行きな、きぃ。あんたはまだ生きていける」
「お姉ちゃんは?」
「私は、行けない」
行けない事が分かる。
「また会える?」
「……そうだね。会える気がする」
それは予感だった。
「小指出してごらん」
きぃの小さな指に私のそれを絡める。
「指切りげんまん嘘ついたら針千本のーます、指切った」
「なあにそれ?」
「約束を守るよって意味。また会おう。きぃ」
そう背中を押せば、きぃはにこりと笑って、何処かでやっぱり会った気がするよなあと、その駆け出していく小さな背中を見送った。
目の前に広がる景色がふわっと消えて、また曖昧な灰色の空間。
「あれは、多数に分岐した可能性の一つだったものです。この様な形での淘汰となりましたが、それがまた貴女の道筋を決めた」
空間にそんな声が響いて、何かがぱたりと目の前に落ちる。
「時が来ればこれは破棄せねばなりません。正しい道筋を辿り、その因果を閉じれば、或いは、」
声は徐々に遠ざかっていった。
私は、その目の前に落ちたものに、手を伸ばした。
水色の、水玉模様の、ノートだった。
そこで、浮遊感、光が辺りに広がって、私は、その眩しさに目をぎゅっと閉じた。
また、ぶつりと意識が途切れた。
そして、次に意識が形を取り戻した時、
目の前は何も無い焼け野原だった。
「……ぃ、きぃ!きぃ!……喜八郎!!」
身体を揺さぶられ、子どもはごふりと水を吐いた。
自分の名が呼ばれたのだ、と顔を巡れば、固い表情の父と、その回りに松明をもった大人達。
「……おやまあ」
ぐっしょりと濡れた体の冷たさにぶるりと身体を震わせながらそう呟き、小指を出してじっと見ている幼い末の息子を、父は何も言わず抱き上げて、村へと戻るのだった。
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