咄、彼女について

□御形の庭・其の五
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 翌日は放課後になっても鏡子は来なかった。
 こんな事を思うと待っていたようで非常に癪である。待っている訳ではない、早く解決させるべきではないかと思っているだけだ。

 然し、来ないなら来ないで俺は好きに過ごさせて貰おう。と、鉄双節棍を手に鍛練へ向かおうとした矢先、用具委員会顧問の吉野先生に声を掛けられた。

「はい、これ、鏡子君からの言伝てです」

 渡されたのは折られた紙片。
 俺は色々と嫌な予感を抱えながらもそれを開いた。

「……え」

 嫌な予感と数多くの想定をしたにも関わらず、そこに書かれている文面に間抜けな声が出た。

〈土井先生と諸用で出掛けている。留三郎は今晩きり丸の部屋に行け。そこまで危険はないから〉

 細く流れる様な手記の印象に反して有無を言わせぬ雰囲気を如実に伝える内容。
 鏡子の『そこまで危険はない』ほど信用ならないものはない。
 ことああいった手合いに対してのあいつの危険認識は常識を大きく外れたおおらかさなのだから。

 吉野先生の眼差しが同情を孕んでいた。

「鏡子は土井先生を何処に連れ出したんですか」

「さあ、分かりません。夜には戻るとは言っていましたが」

「そう……です、か」

 俺は深々と嘆息した。
『言いなり』だと嘲る文次郎の顔が脳裏に浮かび、それを脳裏で殴り飛ばす。
 ならばお前が代われば良い。あいつと関われば否が応でも主導権は奪われる。それに逆らった時の後から来る恐怖までを知ってもなお俺を情けないと馬鹿にできるのならば、見上げた根性だとひとつ義兄弟の契りくらい交わしてやっても良いくらいだった。

『掃除』に関しては決して鏡子の立てた筋道を外れてはならない。

「分かりました」

 重々しく頷く俺に、「頑張って下さいね」と、吉野先生が掛けた声はその眼差しと同様に同情を多分に孕んでいた。







 という訳で、俺は今、きり丸の部屋の前に立っている。
 同室である乱太郎としんべヱには今夜は別の部屋に寝泊まりして貰うことにした。

 戌の刻を過ぎた辺り、戸の向こうは静かだ。胸騒ぎも米神の傷みもない。

 俺は静かに息を整えて戸を開ける。

 部屋の中央では布団に包まれてきり丸が眠っている。
 緩やかに上下する胸元、寝息は至極穏やかなもので、やや血色が悪いことを除けば、ただ寝ているだけにしか見えなかった。

 きり丸の周囲と部屋の中に注意深く『目』を送る。
 気になるものも、何も無い。
 取り敢えず座って、その寝顔をぼんやり眺めた。





 どれくらい、そうしていたのか。

 何時の間にか俺は、軽くうつらうつらとしていたらしい、忍のたまごとして鍛えてきた筈の俺が、この状況において居眠りなど信じられないが、確かに俺はほんの僅かばかし意識を飛ばしていた。

 はっと顔を上げる。
 夢を見ていた気がするが、良く覚えていない。
 何故覚醒したか、戻ってくる意識は聞こえてくる微かな声に集中する。



「きり丸、」

 が、歌っている。
 譫言にしてははっきりとしていて、覚めているにしては淡い声で小さく歌を口ずさんでいる。

 ――仕事唄、だ。――

 昨日の長次の言葉を思い出した。
 何を歌っているのか、それを聞こうと俺は身を乗り出し、きり丸を覗き込もうとした。




 その一瞬だ、脳裏に浮かぶような曖昧な像が『目』前に現れる。




 女の腕だ。


 きり丸の胸元をあやすように叩いている。


 ほんの僅かな瞬きで消えたそれ。
 俺の心の蔵がやにわに煩くなる。
 名残を追え、と、無意識の内にそのあるかなしかの気配を追う。それは切れかけた糸を手繰り寄せる感覚に似ていた。

 そうして、俺は部屋の隅に置かれた箱に気付く。

 何時からあったのか、最初からあったろうか。
 やや埃が染み付いた細長いそれに手を伸ばした。かたり、と音がする。



 中身がある。




 箱を前にして暫く迷う。
 鏡子はまだ帰って来ない。余計な事はすべきでないと思う俺と、それを開けてみたいと思う俺と、暫しの葛藤の後、俺は結局、蓋に手を掛けた。



『情けない』を払拭したいといった感情が働いた事は認めざるを得ない。

 蓋を開けた時、背後で眠るきり丸の歌声が大きくなった事に気付く。




 いや、違う。

 大きくなったのではない。

 そして、これは、



 箱の中身が古ぼけた掛軸であると確認した瞬間に、暴力的な眠気に襲われる。
 殴られ引き摺り落とされる様なそれはあまりにも唐突で抵抗の隙すら与えられず、俺の身体は意志に反して昏倒する。



 暗転する意識の中、きり丸と女の歌声が柔らかく耳に残って、そして、それからは分からなかった。


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