「十六夜の月」

□当惑
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 元治元年六月十日 

 江戸 千葉道場

 広い道場内に竹刀のぶつかり合う音と、前へと踏み込んだ時の床の音が勇ましく響き渡る。
 早朝の稽古あけにも関わらず、龍馬の、直哉への特訓は続いていた。
「えいぞ、そん調子じゃ。足構えもだいぶ様になってきたぜよ」
「はい!」

 下田湊から品川湊へ向かい、二人が安達清風の屋敷へと辿り着いたのは夕方過ぎだった。
 龍馬たちは手厚く持て成され、熱心に語ってくれる安達の言葉を聞き逃すことなく、龍馬は夢中で書きとめていた。
 その後、江戸を散策しながら玄武館を目指し、師である千葉定吉の屋敷に身を置くようになって数日。龍馬にとって玄武館(ここ)は、初めて本格的に剣術を学び、夢を育みながら成長した場所である。
「今日も精が出ますね!」
 明朗快活、それでいて可愛らしい声に二人は剣を休め、声のした方を見遣る。そこにいたのは、胴着の上から防具を身につけ、竹刀と面を脇に抱えた佐那であった。
 千葉佐那。千葉定吉の次女で、北辰一刀流小太刀免許皆伝を持ち、長刀師範も務めている。
 女性ながら精悍な顔立ち。男性をも負かしてしまうほどの腕前であったことから、門下生の間では、「鬼小町」と呼ばれているらしい。
 やる気満々の佐那に対して龍馬は、
「おう、そういう佐那さんの方こそ。今日も勇ましいのう」
 と、首から下げていた手拭いで顔の汗を拭いながら余裕の微笑みを浮かべた。
 佐那は直哉の隣に並び、「お相手願います」と、龍馬に微笑み返す。
「まぁた、わしにやられに来たがかえ?」
 悪戯っぽく瞳を細める龍馬に、佐那は「今日こそは勝たせて頂きます」と、真顔で答える。
「ほんまに佐那さんには敵わんぜよ」
 龍馬から下がっているように言われた直哉は、面を外し、二人の邪魔にならないように距離を置いた。
 千葉家を訪れてからというもの、二人の真剣勝負は続いている。
 役者の性とでもいうべきか、現代へ戻れる可能性は低いが、直哉は坂本龍馬を演じるうえでこの上ない環境であることを実感しながら、今回もその和やかな雰囲気を盗もうとしていた。
 防具の装着を終え、二人はゆっくりと間合いを取って一礼する。そうしてすぐ、佐那の俊敏な面を狙った一振りを、龍馬は余裕で交わした。
「おっと、危なかったぜよ」
 そんな芝居がかった龍馬に腹を立てた佐那の、胴への突きさえ通用しない。
(こうなったら…)
 佐那は片手で竹刀を構えている龍馬の後方を指さすと、「あー、兄上」と、大袈裟に言って油断作戦に出た。次いで、後ろを振り返る龍馬の隙を狙うも、あっけなく剣先を払われてしまう。
「わしにそん手は通用せんちや。残念じゃったのう」
「もう、龍馬さんには敵わないわ」
「ははは、またいつでも相手するき」
 互いに面を外し、汗を拭いながらにこやかに笑い合う。
 龍馬が千葉道場の門を叩いたばかりの頃は、佐那が主に龍馬の相手を務めていた。伝えられている史実では、出逢いから現在までの間に互いを思いやるようになるのだが、お龍が現れてからというもの、龍馬の心が佐那から離れていくとされている。
 互いに、“好かれているのではないか”と、思いながらも二人は未だ中途半端な想いを抱えたままであった。


 ***************


 京都 新選組屯所

 池田屋事件後、新選組は引き続き会津藩の力を借りながら、なおも尊攘派の残党を捕えるべく京の町を探索し続けていた。
 翌日。屯所へ戻って来た沖田、永倉、藤堂らは徐々に元の日常を取り戻しつつあるが、診療所へと移動を余儀なくされた新田と安藤は、もうしばらく軍医のもとで治療に専念することとなった。

「これ、絶対に35℃は軽く超えてるよね。あー、かき氷が食べたい〜。キンキンのビールが飲みた〜い。一時間でいいからクーラーの効いた部屋でぐっすり眠りたいよぉぉ」
 優美は堪らず額の汗を拭いながら、半ば自棄気味に呟いた。
 うだるような暑さに加え、生暖かい風が優美の長い後ろ髪を攫っていく。
 部屋にとどまっていることに限界を感じ、北側の日の陰った縁側で、桶一杯の水に浸した手拭いを強くしぼり首元にあてがう。それを繰り返しながら、火照った体を覚ましていた。
 そうしながらも、会津藩に預けた古高のことや、いつもと変わらぬ笑顔で元気に帰還した沖田のことを気に掛けずにはいられなかった。
 古高が「御所焼き討ち計画」を白状したことが切っ掛けとなって、新選組が会津藩らと手を組み、過激尊攘派浪士らを討ったとされている。
 だが、それは今回の一件で真っ向から覆された。
 現在、古高がどこでどのような処分を受けているかは分からないが、たとえ寿命を迎えようとも、きっとどのような拷問にも耐え抜き、自らの志を貫き通しているに違いない。
 とするならば、あの有名な「御所焼き討ち計画」は、第三者によって創作されたことになる。

『烈風を期とすべし。中川宮を幽閉し、会津公を討つ』

 尊攘派浪士たちからすれば、幕府は憎むべき敵であることから、そのような想いを抱いていたことは明白である。だが、しかし。枡屋の蔵いっぱいに敷き詰められていた武器弾薬がその証拠だと考えるのが常識だとしても、帝を攫うなど、そこまでの企てがあったかどうかは疑問である。
 古高が白状したと嘘の供述をすることなど、この時代では容易いこと。あるいは、沖田の労咳説も含め、後に池田屋事件を盛り上げようと、作家や記者が思い描いたシナリオだったのかもしれない。
(ほんとのところ、これから新選組はどうなっていくんだろう…)
 知り得る限りの史実の全てが真実ではないことから、優美の不安は増していった。
 思わず深い溜息をついた。その時、人の気配を感じると同時に、「今日も暑いね」と、いう沖田の涼やかな声がして、優美はゆっくりと声のした方へと視線を向けた。
「マジで…いや、真面目に暑いです」
「今年一番かもしれないね」
 沖田も首から下げていた白い手拭いを水に浸し、同様に首やうなじにあてがう。優美は、気持ち良さそうに瞳を細める沖田の、少し微睡んだような横顔を見つめながら何気なく声をかけた。
「もう、普通にしてて大丈夫なんですか…」
「ああ」
「そっか。それなら良かったです」
「心配してくれてたの?」
 まるで自分を愛でるかのような優しい眼差しと目が合い、優美は焦ったように視線を逸らした。
「ど、同志ですから!心配して当たり前じゃないですかぁ」
「あはは、その顔。土方くんといると飽きないな」
(むぅ。いつだってこれだ…)
 そんなことを思いながら、手拭いで顔を覆い始める沖田にふくれっ面を返す。なぜかそのまま動く気配がないことから、優美は躊躇いがちに声をかけた。
「……どうかしたんですか?!」
 さらに近づいた。刹那、素早く手拭いをずらそうとした沖田の指先が、優美の右頬を掠めていき。
「いったぁ…」
「あ、ごめん!」
 沖田は動揺しながらも、両手で右頬を押さえ込んだまま俯く優美の、悲痛に歪んだ顔を覗き込むようにして謝罪し続けている。
(傷は大したこと無さそうだけど、仕返しをするなら今しかない!)
 優美は心の中でほくそ笑みながら、過剰に痛がる振りをした。
 更に心配そうに声をかけてくる沖田の様子を窺いつつ、俯き加減な顔を上げる。と、一瞬、互いの鼻先が触れ合ってしまうのではないかと思うくらい間近にしていたことで、優美の企ては脆くも崩れ去ったことは言うまでもない。
「ごごごご、ごめんなさい!」
 慌てて距離を置く優美に、沖田は苦笑を浮かべる。
「いや、私の方こそ」
「あのですね、いつもからかわれてばかりだから、その…」
「そんなことより、傷になったりしていないかな…」
 沖田は、必死に言い訳をする優美を気遣うと、微かに赤くなっている部分を指先でそっとなぞるように触れた。
「……薄らと血が滲んできている」
「でも、こんなの大したことないから…」
「今すぐ泡盛を貰って来るから、ここで待ってて」
「あ、沖田さ…」
 引きとめる間もなく、速足で台所方面へと駆け去って行く沖田を見遣りながら、優美は触れられていた部分が痛みとは違う熱を帯びていることに気付く。
(優しかったな……沖田さんの指先…)
 そんなことを思い、しばしぼんやりとしていた。その時、前方から歩み寄って来る島田から出動命令を受けた。
「尊攘派浪士(やつら)が祇園の『明保野亭(あけぼのてい)』にいるとの報せを受けた。既に武田隊が現地に向かったそうだ。明保野亭は知っているな?」
「はい!」
「俺は別件で留守にするから、あとは頼んだ」
 優美にも支度を促し、その場を後にする島田と入れ替わるようにしてやって来た沖田を迎え入れる。
 すると、沖田はすぐに泡盛に浸した真新しい綿紗(めんしゃ)を優美の目元にそっとあてた。ちなみに、綿紗とは現代で言うところのガーゼのようなものであり、屯所内(ここ)では晒と同じくらい使用頻度が高く、消毒には主に泡盛が良いとされている。
「ありがとう、沖田さん」
「なんだか騒がしいけど、何かあったのかな」
「長州藩士たちが祇園付近にある料亭にいるとの報せを受けたらしいです。これから私も向かいます」
 そう言うと、優美はすっくと立ち上がり踵を返す。
「じゃ、行って来ます」
「気をつけてね」
「沖田さんも」
 優美が角を曲がるのを見送った沖田は、手にしたままの綿紗に滲んだ微かな赤を見つめながら、切なげな吐息を漏らした。
(これが私の運命(さだめ)なら、受け入れるしかない。今更なにを躊躇う必要がある…)


 明保野亭

 優美が明保野亭へと辿り着いた頃にはもう、既に武田隊と会津藩らによっておおかた片付いていた。
 相変わらず人手を欠いていた新選組は、会津藩の助けを受けなくてはままならないところまで来ており、総勢二十名による捕り物となった。
 次々と尊攘派浪士たちが捕縛されるなか、優美は武田隊として加わっていた山崎からその一部始終を聞いた。
 会津藩らと踏み込んだ際、武田が開口一番、「取り逃がすことなく、討ちとるべし」と、言ってその場にいる皆に檄を飛ばしたらしい。
 その後、事件は起こった。
 柴司(しばつかさ)という会津藩士が怪しげな人物に槍を突きつけたそうなのだが、相手は尊攘派浪士ではなく、なんの関係も無い、麻田時太郎という土佐藩士であることが判明したという。
「こうなってしもては、なんも出来ひんさかい。あとは上に任せるしかない」
 次々と明保野亭を後にする隊士たちを見遣りながら呟く山崎に、優美はただ、頷くことしか出来ない。
 問題なのは、会津藩士が土佐藩士を傷つけてしまったということ。
 土佐藩士の上層部には公武合体論を推す者が多い為、出来れば争い事は避けなければならない。しかも、柴は新選組を高く評価していたことから、なんとか事が円滑に、尚且つ円満に終わることを願うばかりであった。
「きっと大丈夫ですよ。柴さん…でしたっけ?だって、勘違いだったんですから…」
 そう言って、山崎の隣に並ぶ優美に、山崎はほんの少し視線を傾けながら深い溜息を零した。
「そうもいかへんもんなんや…」


 ***************


 江戸 千葉定吉邸

 一方、その頃。
 直哉のほうはというと、広い縁側にて龍馬と佐那の兄、重太郎と共に佐那の拵えた握り飯を頬張っていた。
「うまい!一汗流したあとのこれは格別じゃのう」
 直哉も同様に握り飯を食べながら頷く。と、重太郎も口いっぱいの飯粒を転がしながら「沢山食べてくれ」と、にこやかに笑った。
 千葉重太郎。千葉家長男として幼い頃から剣術を習い、定吉が鳥取藩の剣術師範に就任して以来、道場を任されている。総髪が似合い、長身で目鼻立ちのはっきりとした顔立ちのうえ、剣術の腕も確かである。
(しかし、見れば見るほど高木さんに似ているな…)
 千葉重太郎役のベテラン俳優が本物と似ていることから、初めて顔を合わせてからというもの、直哉は重太郎に対して親しみを覚えていた。
 そんな直哉を見つめながら、佐那が楽しそうに微笑む。
「直哉さん、顎にご飯粒がついていますよ」
「え…」
「もうちょっと右の方」
 佐那の指示通り、指先で飯粒を見つけると、直哉は少し照れたようにそれを口に含んだ。
「俺としたことが…」
「顔が赤くなっちゅうぞ。直は、佐那さんみたいな女子が好みがかえ?」
 龍馬からもからかわられ苦笑を漏らす直哉に、今度は重太郎がにこやかに微笑み、
「佐那に惚れてもいいことないぞ。こんなじゃじゃ馬を手玉に取れるのは、坂本くんくらいなもんだからな」
 そう言って、豪快に笑った。
 重太郎を見つめる龍馬と、佐那の顔がほんの少し引き攣り始める。
 二人の、どこか躊躇ったような視線を受けながらも、重太郎はそんなことはお構いなしとでもいうかのように続けた。
「坂本くん。そろそろ佐那を貰ってやってくれないか?」
「兄上!それは、」
「確かに俺が口にすることではないが、お互いに想い合っているんだろう?」
 佐那に制されるも、重太郎は厳かに龍馬を見つめたまま。龍馬は戸惑いの視線を泳がせながら、自分には世直しの旅を続けねばならない義務があることを簡潔に伝えた。
「それやき、今は……」
「ならば、いつならいいいんだ?佐那はいつまで待てばいい」
「…………」
 その威厳ある眼差しを前に、とうとう龍馬は言葉を失った。直哉もまた、食べかけの御握りを手にしたまま、神妙な面持ちで三人の動向を窺っている。
 龍馬の胸中を察するものの、自分にはどうすることも出来ない問題であることから、直哉はただ、この場を見守ることしか出来ない。
 暫くした後、初めに沈黙を破ったのは佐那だった。
「兄上は誤解しています。私が龍馬さんに想いを寄せていると」
「…佐那」
「確かに、龍馬さんは素敵な人だと思います。でも、それは……」
 佐那はぎこちなく微笑み、“友情”であると、いって龍馬を見つめた。
 龍馬がこの世を去ってもなお、彼女は龍馬だけを想い続けていたと言い伝えられている。直哉は、ここ数日の佐那の言動を思い返してみた。
(もしも、史実通りなら嘘をついていることになる。いや、きっとそうなんだろうな。龍馬さんのことが好きだからこそ、引きとめられないに違いない。)
 真意は分からないが、いずれにせよ、二人にとってベストだと思える未来が訪れることを心から願う直哉であった。



【次回へ続く】

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