「十六夜の月」

□真実の愛しさ
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 翌朝。
 池田屋にて死闘が繰り広げられている頃、直哉たちは別行動していた勝海舟に、浪士たちを北海道(えぞち)へ移住させるという計画を伝える為、伊豆は下田を訪れていた。
 角屋という宿に一泊した後、今度は江戸を目指し黒龍丸を前進させる。
 直哉は船尾に佇み、海風に髪を攫われながらゆっくりと遠ざかる漁港を見遣りいった。
「正式に許しがおりて良かったですね」
「ま、先生なら快く承諾してくれる思うちょったが。これで遠慮のう動けるっちゅうもんじゃ」
 龍馬もまた、隣にいる直哉を横目にそう言って、未だ見送ってくれている勝らに大きく手を振る。

 ここまでこぎつけるまでに、海軍操練所の件は勿論のこと、再脱藩することになったり、黒龍丸を手に入れる為に何度も自らの頭を下げてきた。
 いずれは「いろは丸」や、「大極丸」などの蒸気船を活用して大活躍を遂げることになるのだが、操練所にて譲り受けた黒龍丸は、まさに龍馬の為に用意されたといっても過言ではない。
 そんな龍馬ではあったが、どんなに忙しくても、お龍との時間は欠かさなかった。どうやら、二人は順調にその情愛とやらを育んでいるようだ。
 だが、しかし。そんな龍馬の一番の悩みは、京に滞在し続けている同志らのことであり、なかでも、家族のように親しみを抱いている望月亀弥太と、北添佶磨らのことを気に掛けていた。
 龍馬は何度も、“京を離れたほうがいい”と、彼らに言い聞かせて来たのだが、誰一人として首を縦に振る者はいなかった。
(胸騒ぎがするぜよ…)
 龍馬の胸中とは裏腹に、分厚い雲間から太陽が顔を出し、海面を照らし始める。きらきらと輝く波を見つめながら、龍馬は厳かに瞳を細めいった。
「なにがなんでも、こん夢、叶えてみせるぜよ」
 覚悟の眼差しとでもいおうか。
 直哉はそんな龍馬に無言で頷くと、ゆっくりと踵を返し、船首方面へと歩みを進める。
「次は、誰に会う予定なんですか?」
「次かえ。次はのう、」
 言いながら、龍馬も同様に直哉に続く。
「江戸におる安達静風(あだちせいふう)っちゅう、これまた、どえりゃあ人に会いにいくぜよ」
 安達静風とは、学術交流や開拓事業に長けた人物で、神発流砲術教授として京都留守居を務め、尊王攘夷運動にも参加している。今、龍馬がやり遂げようとしている「浪士による蝦夷地開拓計画」を実現させる為にも、安達とは面談しておく必要があった。
「江戸へ行かな。そう思うんじゃけんど…」
 船首に辿り着いて間もなく、壁を背にその場にゆっくりと腰を下ろす龍馬の、いつにない落ち込んだような表情を目にして、直哉はぎこちなく微笑みながら龍馬と向かい合わせに胡坐をかいた。
「京都へ戻りたい、ですね」
「ああ。無事でおってくれたらえいが…」
 昨年の「八月十八日の政変」にて、京を追い出された過激攘夷派たちによる報復とでもいうべきか、浪士たちはこれまでの信条と倫理を訴え続ける為、京へ返り咲く機会を窺っている。それは、望月たちから聞かされてきた龍馬であったが、過激攘夷派以上に熱くなっている彼らを気にかけずにはいられなかった。
「奴らとは、長い付き合いやきね。無駄に命を落として欲しゅうないがじゃ…」
 雲間から顔を覗かせている澄んだ青空を見遣りながら、力無くいう龍馬に、直哉はただ、「そうですね」と、返すことしか出来ずにいる。
(暗殺されるのは大政奉還後だとして、これから坂本龍馬はどうなるんだ…)
 直哉は天を仰いだまま、目蓋を閉じる龍馬に視線を遣りながらも、もっと自分なりに坂本龍馬の歴史を学んでおけば良かったと後悔していた。
 近藤勇役の役者とは同期で、現場で会う度にドラマの話をしていたが、新選組隊士を演じるうえで一番の見せ場といっても過言ではない池田屋でのシーンで、過激派浪士たちと斬り合うことになると言っていたのを思い出し、嫌な予感が頭を過る。
(確か、池田屋事件が起こるのは祇園祭の最中だったはず。ということは、もしかしたら…)
 今年なのか、来年なのか。いずれにせよ、この時期だったことを想い出し、龍馬のように仲間の生存を祈らずにはいられない。
 たった四ヶ月とはいえ、苦楽を共にした友人であることから、直哉もまた、言いようのない不安に駆られ始める。それでも、ふと、こんな時こそ今度は自分が龍馬のことを励ます番であると、そう思った直哉はすっくと立ち上がり、広い大海原を見つめいった。
「龍馬さん」
「なんじゃ…」
「江戸へ行ったら、本格的に剣術を教えてくれるって言っていましたよね?」
「……そないにゆうたが」
 そう言いながら、おもむろに立ち上がる龍馬。直哉は未だ元気の無い龍馬から間合いを取ると、刀の柄に手を添えた。
「俺、北辰一刀流を極めたいと思います」
「おいおい、どういう風の吹き回しじゃ?」
 龍馬は少し驚愕したように目を丸くした。
「龍馬さんみたいにはなれないかもしれないけれど、いつか自分が本来いるべき場所へ戻れた時に役立てられるように。自分の身は勿論、みんなを守っていく為にも必要だから」
 直哉自身も、どうしてしまったのかと思うくらいなのだから、ずっと連れ添って来た龍馬が驚くのも無理はない。これまでは、なんの目標も無く、ただ漠然と毎日を過ごしていた直哉であったが、今は確実に自分の志というものに近づいていると実感していた。
「成るようにしかならない。時世に応じた判断が必要だ」
 ふと、龍馬に言われた言葉を口にしてみた。
「きっと、同志達(かれら)なら大丈夫ですよ。今はそう思うようにしましょう」
 眩しそうに瞳を細めながら水平線を見つめる直哉を横目に、龍馬は両腕で伸びをしながら言う。
「ほうじゃな。あいつらなら、きっとしぶとく生き残るに違いないちや。よっしゃ、江戸へ着いて安達さんと会うたら、玄武館へ連れてっちゃる」
「その時は、よろしくお願いします」
「おう。覚悟しぃやぁ〜!」
 ようやく、本来の明るさを取り戻したかのように見えた龍馬であったが、内心は未だ厚い雲に覆われた空のようにどんよりとしていた。
(みんな、無事でおってくれよ…)
 そんな龍馬の願いも空しく、この時既にもう、望月亀弥太と北添佶磨は帰らぬ人となっていたのであった。


 ****************


 新選組屯所

 祇園会所から朝一番で戻って来たのは、近藤、土方をはじめとする二十八名であり。屯所に残っていた隊士らは、近藤からこれまでの経緯を報されることとなった。
「奥沢くんが…」
 山南が悲し気に眉を顰める。
 報告後、近藤の傍ら、山南と土方だけはその場に残っていた。
「私が参戦していれば…」
 と、山南が呟いた。刹那、土方の鋭い視線が山南へと向けられる。
「そうだな」
「…………」
「だが、何もあんたが卑下することはない。運もあるだろうが、死傷の原因は全て、自らの力量の無さと油断が招いたものだ」
(正論だ)
 山南は微苦笑を浮かべながら心の中で思った。
「歳(とし)のいう通りだ。山南さんがいてくれたら心強かったとは思うが」
 近藤の一言にも、半ば無理やりにでも頷いてみせる。
 現代でいうところの、「過激警察官」となりつつある新選組をどうにか、昔のように正常な剣客集団に戻したいと思う山南と、「日本一の剣客集団」となるべく奮闘し続けている土方との間には、少なからず確執がある。
 この頃になると、二人の対立はいっそう激しくなり、専ら近藤がその仲裁を務めていた。近藤からしてみれば、双方とも、唯一無二の存在であることは昔も今も変わりはないからである。
「奥沢を失ったのは痛いがな」
 近藤が囁くようにいった。
 戦死した奥沢は勿論、重症を負った新田、安藤、藤堂、永倉、沖田らは、会所にて治療に専念する為、翌日以降の帰還となっている。随時、怪我の軽い者から戻って来る予定ではあるが、負傷者の中に沖田が含まれていたことに対し、近藤と山南は違和感を覚えていた。
「しかも、あの総司が敵を取り逃がすとは…」
「私も、それだけは信じがたい」
 それぞれの視線をいっぺんに受け、土方は伏し目がちに軽く溜息を零した。
 二人にも伝えるべきか、黙っていて欲しいという沖田の言い分を貫き通すべきか。土方はほんの数秒のうちに決断し、おもむろに立ち上がりながら静かに口を開いた。次いで、
「無理をして風邪をこじらせていたらしい。総司(あいつ)らしいが、これからは回復するまで大人しくすると約束させた」
 そういって、縁側へと歩みを進める。
 いつの日か、近藤たちにも伝える日が来る。そう思いながらも、今は沖田の想いを汲むことにしたのであった。
「総司も、山南さんのように屯所(ここ)で待機させるべきだった」
「………」
 土方の一言に、山南は薄らと笑みを浮かべながら俯いた。
「士気を下げる原因になりかねないからな。近藤さんからもきつく言っておいてくれ」
 と、言い残してその場を後にする土方に、近藤は腕組みしながら苦笑いを零す。
「相変わらず容赦ないな」
「そこが、土方くんの良さでもあります。それよりも、ここからが我々の腕の見せ所ですね」
「ああ」
 宮部鼎蔵や吉田稔麿らを討ったとなれば、敵も黙ってはいないだろう。新たな栄光を手に入れたと同時に、数多の攘夷派浪士たちを敵に回したことになる。
「より多くの隊士を募り、我らへの報復を阻止せねば」
 と、山南がいつにない険しい眼差しで近藤を見つめた。近藤もまた、同様に一つ返事を返す。
「貴方がいれば、新選組は常に真っ直ぐ進んでいける。これからも俺達の右腕として、よろしくお願いします」
「……承知しました」
 信頼の眼差しを受け止めた山南は、新たな重責を担いながらも、しっかりと答えた。それと同時に、心の中に渦巻いていた暗雲が少しずつ消えていくのを感じていた。


 
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