「十六夜の月」

□池田屋事件?!
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 元治元年六月五日。昼九つ。

 新選組屯所

 一方、優美のほうはというと、主に昨年の夏に勃発した『八月十八日の政変』によって京を離れたはずの長州藩士や勤王志士たちの動向を窺うべく、山崎達と共に密偵を熟す日々を送っていた。
 隊士たちと同じように袴を纏い、腰元に二刀携えたその様は美青年のよう。
(思っていたよりも、暇なんだなぁ…)
 優美は、縁側に腰かけながら澄んだ青空を見遣った。
「青いなぁ…」と、呟いた。その時、背後を速足で通り過ぎていく誰かの気配を感じて振り返る。歩み去ろうとしていたのは山南であった。
 優美から何事かと尋ねられ、山南は足を止め振り返り言う。
「やはり、枡屋は黒でした」
「え、」
「これから、取り調べを行うそうです」
「それ、私も行ってもいいですか?」
 躊躇いがちに言う優美に、山南は薄く微笑みながら頷いた。


 辿り着いたのは前川邸の蔵で、既に逆さ吊りにされた枡屋の周りには土方、井上、沖田がおり、優美と山南はゆっくりと彼らの背後についた。
(この人が……枡屋喜右衛門…)
 優美の視線の先、枡屋の体には、もう既に微かな傷跡が刻まれていた。全体的にむくんで見えるが、それでも長身で品のある端整な顔立ちが窺える。
「そろそろ、吐いたらどうだ」
 枡屋を睨み付ける土方の、今まで耳にしたことのない陰惨いんさんな声。優美は、思わず息を呑んだ。
「……この身が…朽…ち果て……ようとも……」
 目蓋を閉じたまま、何とか答えようとする枡屋を見ていられなくなり、優美は思わず視線を逸らした。刹那、何度目だろうか、土方の容赦ない一撃が加えられ、枡屋が苦し気な息を漏らす。
「くっ……」
「強情な方ですね。さすが、長州の大元締めとなられるだけあります」
 と、言いながら沖田が土方の隣に並ぶ。
「土方さん、これでは埒があきませんよ」
「分かっている」
 沖田にそう返すと、土方は静かにその場を後にした。
(どこへ行くんだろ…?)
 去って行った方を見遣っていた優美の隣、山南が古高を見ながら大きく溜息をついた。
「教えて下さい。あれらの武器弾薬は、我らへの宣戦布告と捉えて宜しいか?」
「…………」
「古高さん、今のうちに白状しておいた方がいい」
 枡屋喜右衛門。本名を古高俊太郎といい、梅田雲浜(うめだうんぴん)の弟子として物心ついた頃から攘夷を志していた。
 表向きは四条小橋の薪炭商人(しんたんしょうにん)として薪や炭などを販売していたが、じつは長州の大元締めとして情報交換及び、武器弾薬の確保を担っていたとされ、池田屋事件の発端となった人物である。
 この後、古高は土方からの拷問により、全ての計画を吐露してしまうとされているのだが、その歴史的事件のまさに渦中にいるのだと、優美は身震いを覚えた。
(えーと、この後古高俊太郎はなんて言うんだったっけ?)
 全てではないものの、優美は思い出そうとしていた。と、その時、
「今度こそ吐いて貰う」
 戻って来た土方が手にしている物に、優美は一瞬目を見開いた。
「まさか、それで?」
「そのまさかだ。これだけはやりたくなかったが、仕方あるまい」
 土方が手にしていたのは、五寸釘と金槌であった。そのまま皆が見守るなか、予てから持参していた蝋燭行灯も手にすると、土方は二階へと上がり、古高の足の裏に釘を打ち込んだ。
 たちまち、土蔵中に響き渡る古高の絶叫にも似た声。
「…っ……」
 優美は、堪らず両手の平で耳を押さえながら背を向けた。
 それだけでも十分な苦痛を伴うのだが、土方は更にそのうえに火のついた蝋燭を立てたのだった。
「吐く気になったか?」
 階下へ戻って来た土方の、冷徹な眼差しを目前に、古高は歯を食いしばりながら熱さと痛みに耐え続けている。
「だれ…が……死んでも……」
 気を失ったのか、微かな吐息を最後に力無く項垂れてしまった古高を見かね、山南が厳かに口を開いた。
「もういいでしょう。このままでは、殺してしまいかねない」
「気を失っている振りをしているのでは?」
 言いながら、沖田が古高のだらりとぶら下がった体を揺らす。古高の血の気の引いた顔が、さらに青白くなっていくのを見てとった井上が、山南に賛同した。
「どうやら、諦めるほかないようだ」
 チッと、土方が舌打ちをする。沖田も小さく溜息をつきながら、綱を操作して吊るしていた古高を下ろし始めた。
「しかし、辛抱強いなぁ。敵ながらあっぱれですね」
 沖田の呟きを聞きながら、優美は心の中で思った。“こんなこと出来るあんたたちの方がすごい”と。


 夕刻。
 結局、古高から何の手がかりも得られぬまま。軍師である武田観柳斎の意向により、近藤局長やの下、隊士たちは京に潜伏しているであろう敵を捕縛する為。行き当たりばったりではあったが、宿という宿を虱潰しにするという強行に出ていた。
 そんななか、体調を崩していた山南や、敵からの襲撃に備え残った隊士たちと共に屯所を守ることになった優美は、半ばナチュラルハイ状態であった。
(これが池田屋事件ってやつか。確か、近藤さんたちが池田屋に潜伏していた勤王志士たちと斬り合いになった…)
 近藤たちのことは勿論だが、土蔵の中にいる古高のことも気になっていた優美は、土蔵前を守っていた尾関と交代し、そっと重たい戸を開いた。
 真っ暗闇の中、血と汗の匂いがつんと鼻をつく。次いで、聞こえて来たうめき声に思わず手にしていた蝋燭行灯を掲げ、仰向けになっている古高を照らした。
(苦しそう…)
 いっそ、殺してくれとでも言わんばかりの低くおどろおどろしい声が、優美の鼓動をよりいっそう速めていく。
「だ、大丈夫ですか…」
「……を…くれ…」
「え?」
 横たわったままの古高に近寄りながら、何て言ったのかを問いかける。と、古高はぜいぜいと息を荒げ、「水をくれ」と、言った。
「あ、ちょっと待っててね。今、持って来るから…」
 隊士としてはあるまじき行為かもしれないと、心の中で思いながらも優美は駆けださずにはいられなかった。湯呑いっぱいにくんできた水を、少しずつ古高の半開きな口へと流し込む。
「あ、ダメだ…」
 そのほとんどが零れてしまうことから、優美は仕方なく口移し作戦に出た。自ら口に含み、人工呼吸をする時のように飲ませると、古高は大きく咳込みながら薄らとした微笑みを浮かべた。
「お、おおきに…」
「こんな蒸し暑いのに、水無しじゃキツイよね…」
 言いながら、軽くだが手当された古高の傷を見遣る。
「早く白状していれば、こんなことにはならなかったのに…」
「…………」
「まぁ、そんな簡単に言えるならこんなことにはなっていなかったわけだけど…」
 疑問に思っていたことを素直に口にすると、古高はうつろな目で優美を見つめながら囁くように言う。
「あんさんこそ、女子がこないなとこで何してはるん…」
 その声は、耳を近づけなければ聞こえない程か細い。
「これでも、新選組隊士ですから…」
「あんさんが…?」
「見えませんか?」
 ゆっくりと右手を上げ、指先を震わせながら「これっぽっちも」と、言う古高に優美は少し怒ったように眉を顰めた。
「そんだけ言えるなら、大丈夫ですね」
 そして、また激痛が走ったのか、古高は苦痛を伴ったような声を発し始める。
 優美が知っている史実では、もうとっくに自白していることになっていたが、実際、再三の拷問にも耐え忍んだことに対しては軽い衝撃を受けていた。
 古高の真意はどのようなものなのか、優美は躊躇いながらも問いかけてみた。
「どうして、白状しなかったんですか?」
「答える義理はない。それに、あんさんらには分かれへんやろ…」
「確かに。ここにいる人達にとって過激派攘夷論者は敵だから、なかなか分かってくれないかもしれない。でも、私は違う。あなたたちの想いも、分からなくはないです」
 天井を見遣っていた古高の、ぼんやりとした視線が優美へと向けられる。
「ほう…」
「だからと言って、今は新選組隊士として幕府の配下にあるので命令は絶対ですけど」
 優美もまた、逸らしていた視線を上げた。
「あなたたちの敵であることは変わらないし、難しいことは分からないです。でも、私達の志とあなたたちの志は同じだということだけは……なんていうか、伝えたいと思ったっていうか…」
 上手い言葉は見つからなかったが、ありのままの想いを伝えると、古高は優美の真剣な瞳を見つめたまま、噎せ返り笑った。
「まるで、わてらのことまで知っとるような口ぶりやね…」
「なんていうか、知らないけど知ってるっていうか。とにかく、同じ日本人同士が殺し合ったりするのは……その、やっぱり間違ってると思うから。みんなで手を取り合って、」
「そないなこと、天地がひっくり返らん限り有り得へん」
 間髪入れずに優美の言葉を遮る古高。優美は悲し気に顔を歪めながら、次の言葉を探した。この時代に生まれ育った古高と、現代でぬくぬくと育った優美とではかなりの温度差があることは否めない。
「……己の志を全うする為、ここで果てようと、口を割るわけにはいかへんのや」
(こんなにも自分の信念を貫けるなんて…すごい…)
 そう思いながらも、この時代の人の悪い癖とでもいうか、生き急ぐ傾向に歯止めをかけるべく優美は真剣な眼差しで古高を睨み付けた。
「あなたを想って待っている人はいないの?」
「……何がいいたいんや」
「好きな人や家族が悲しむって、思わないの?」
「………」
「こんなところで死んじゃったら、何にもならないでしょう?」
 現代人特有の甘い感情であることは承知のうえだった。それでも、この世に自分を誕生させた母親の想いや、家族を守ろうとしていた父親の想いは勿論、今、まさに古高を奪還しようとしているであろう同志たちの想いを無駄にするなと、優美の説教は続いた。
「勝ち負けじゃないけど、どんな時も幸せに生きることこそが相手にとって最大の屈辱になるんだから」
(なんで、こんなにも熱くなってるんだろ……私)
 そんな優美に、古高は泣いたように微笑む。
「とうに捨てました。故郷も、想い人も…」
(…っ……)
 その一言に、優美は思わず身震いを覚えた。
「とうに、捨てたんや…」
 そう言って、古高はまた重たそうな腫れぼったい目蓋を閉じる。
 古高の覚悟を知り、優美はこれ以上何も言えないまま、土蔵を後にしたのだった。
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