劣等感
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「今日もえらく綺麗な月がでてやがるな」
「……ええ、そうですね」
一隻の船の上。煙管を咥え妖艶な笑みを浮かべる男と、その男の後ろで彼の背中を見つめる女。
「片付いたのか?」
女を振り返り尋ねるその男、左目には包帯を巻き、派手な着物を身に纏う。彼こそ巷を騒がせている“鬼兵隊”の首領であり、攘夷志士の中で最も過激で最も危険な男、と称される高杉晋助である。
「もちろん。鬼兵隊総督様に言われた通り、全て始末して来ました。」
女がそう答えると高杉は笑みを深めた。しかしその笑みがすぐに消え、駆けて来た隊員に厳しい視線を向ける。
「何の用だ」
慌てた様子の隊員に冷ややかな目で問うと、隊員はその冷たさに小さく身震いするがすぐに表情を引き締める。
「幕府の犬が潜り込んだようです!」
その言葉に高杉は小さく舌打ちをし、そばに居た女に言い放つ。
「…始末して来い」
「仰せのままに」
くるりと高杉に背を向け騒ぎの中心へと向かうその女、血を思わせるような真紅の着物を身に纏い、顔が見えぬよう不気味な狐の面を被る。
「頼むぞ、姫仍」
「はい、……兄上。」
彼女の名は、高杉姫仍。黒く艶やかな髪を靡かせ、風のように剣を振るい、女の通った道には惨い亡骸しか残らないという。
「鬼兵隊、だと?」
「ええ。見慣れぬ立派な船が停泊している為、念の為探ってみたところ奴らの船だった様です。」
真選組の一室にて、昨夜の出来事が“侵入者”であった真選組監察の山崎退によって、副長である土方十四郎に語られていた。
「幹部の姿は確認出来たのか。」
「いえ。」
土方は山崎の返答に目を見開く。
「幹部の姿を確認していないのに“鬼兵隊”だと特定出来たのか」
「…少し長くなりますが、見たままを報告します」
自身も戸惑っているのか、山崎は少し不安げな表情をし昨夜の事を語り始めた。
副長に頼まれた仕事を終え、俺は屯所へ戻ろうとしていた。
「あれ…?」
しかし現場から見えた港に、見慣れぬ大層立派な船が止まっていたため、停泊許可をとっているかの確認をするため船に近付いたのだ。
「、!」
そしてその船に入って行く女を見た。
この暗闇に溶け込みそうな…でも赤だとわかる着物はどこか血を連想させた。そして顔には不気味な狐のお面。見るからに不審な彼女を見て、もしかするとこの船は攘夷志士のものではないかと考え、ちょっと侵入してみることにしたのだ。
外見も立派だったけど、中はもっと立派だ。とても綺麗でひとつひとつの部屋もなんだか煌びやかに見える。大きな攘夷党か。でないとこんな立派な船を持つことなんて出来ない。
誰にも会わず甲板まで来られた為、現れない敵に気が緩んでいたと言えば否定は出来ない。それほどに、この船は圧倒されるものがあったのだから。
「立派でしょ?この船。」
でも、まさか自分が背後をとられるまでその気配に気付けなかった、だなんて。どこまで気を緩めてしまったのだと激しく後悔した。
「っ、おっと…危ないなぁ、」
懐に忍ばせていたクナイを手に勢いよく振り返ると、そこには先程見かけた女、俺がこの船に侵入した原因がそこに立っていた。
「…お、前は」
「犬のおまわりさんに名乗る名は無いわ」
その表情は狐の面に隠れてみることは出来ないが、俺には彼女が笑っているように見えた。
「きっと私の後をつけてきたんだろうから、今日は私が逃がしてあげる」
「は?」
思いもよらぬ言葉に思わず間抜けな声が出る。
「次は無いからね。もしも私と再会した時は、今度こそ命は無いと思ってね」
妙に明るい声色で話され、完璧に戦闘態勢だった俺の気は削がれ、敵であろう彼女を目の前に肩を落とした。その時。
「侵入者め!ここが鬼兵隊の船だと知っての事か!」
この船の隊員であろう男が駆けて来、発した言葉に俺は気を張り詰めた。
「鬼兵隊、だと?」
「知らずに乗り込んだのか、幕府の犬め。早く始末してしまいましょうよ」
「はあ…。」
女は隊員の声にため息を吐くと、腰に携えていた刀に手をかけた。ガラリと変わる雰囲気。さっきこの女に背後をとられたのは、俺が気を緩めていたからだけではない…、この女、強い。このままでは俺はここで。脱出を考え素早く視線を彷徨わせている俺の耳に届いたのは、ゴトリ、という何かが床を転がった音だった。
「なっ、」
「…お兄さんも早く逃げなきゃこうなっちゃうよ?」
その音は、先程の隊員の首が転がった音だった。彼女は俺が視線を彷徨わせている一瞬の間に刀を抜き、彼の命をとったようだった。
「なんで…仲間なんだろ?」
「…私の邪魔をするから」
「邪魔?」
「私はお兄さんを殺さず真選組へ帰したいからね。わかったら早く帰りなよ、帰るべき場所へ。」
彼女はそう呟くと仲間だったであろう隊員の死体を海を投げ捨てた。
「君の、名前は…」
「さっきも言ったでしょう、犬のおまわりさんに教える名は無いと。でも…ひとつだけ教えてあげる」
彼女はクスクスと笑うと、一瞬のうちに俺の背後へ回り込み、
「私は鬼兵隊総督の妹。この船の一員だよ」
そう耳打ちすると、彼女は俺を海へ突き落したのだった。
「落とされた俺はなんとか岸に辿りつき、屯所に戻って来れたのです」
俺は山崎から語られた内容に頭を抱えた。今まで鬼兵隊に、来島また子以外で女がいるなんて聞いたことが無い。勿論今までのデータにも無い。突然の女隊員、だけならいいが“あの”高杉の妹で仲間を躊躇いなく手にかける、そしてその鮮やかな手付き。山崎は真選組一優秀な監察だ、その山崎が女の気配に気付かず背後をとられる、それだけ相手の方が上だってことだ。
「俺は攘夷志士が集まる場所に潜入し、高杉の妹について情報を集めようかと思っています。」
「ああ、そうだな。そうしてくれ。頼んだぞ山崎。」
「はいよっ」
まだまだ謎の多い不審な女。情報の無いままに俺が彼女を探る事は危険だ。彼女を探ることは取り敢えず監察である山崎へ託すことにした。