Present

□乳母はもう一つの表裏一体を知らない。
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 最初のころはとても痛々しくて見ていられなかった。

 信じる、と言っても裏切られたという事実は変わらないのだからそれは当然とも言えるけれど、彼との別れ際に見せた表情や行動を考えれば、まるで嘘のように、裏と表のように、極端に痛々しかった。

 何か食べなければいけませんよ、と声をかけても「うん」と生返事ばかりで、お腹が空いたら食べてくれるだろうと傍に置いておいた果物はどれほど経っても減ることはなかった。

「もう、いいじゃありませんか。裏切った人間など忘れておしまいなさい。あんな酷いことをする人を想って具合が悪くなってしまうなんて、笑うに笑えませんよ」

 このまま死んでしまうのではないかという危機感に、余計なことが口を衝いて出た。けれどそれは本心でもあったので、訂正することはせず、あえて反応を待つ――必要はなかった。

 刹那、と言ってもいい。

「黙れ」

 間など一切なく、切り裂くような声が、届いた。

「お前に何がわかる。あいつの何がわかる……!」

 普段から丁寧とはいいがたい口調ではあったが、これは間違いなく普段とは違った、敵意のある声だ。眼だ。

「俺でさえもわからないあいつのことが、お前にわかるのか!?」

 恐らく体力が衰えているのだろう、立ち上がろうとするも、気力に身体が追い付かないようだった。

「だったら! だったら教えてくれ! あいつはどうして、あんな……あんなことを」

「忘れておしまいなさい。それがあなたのためです」

 忘れられずに憔悴するぐらいならば、見捨てて未来を見てほしい。先に見放したのも見捨てたのも彼のほうなのだから、覚えておかなければいけない義理もないはずだ。

「俺のため……か」

 はっ、と鼻で嗤われる。

 しかしそれは自嘲だった。

「俺はきっと、あいつを忘れたら生きてはいけない」

 捨てられただけで、このざまなのに。と、もう一度嗤う。

 そうしてしばらく俯いたまま動かなかったが、不意に手が傍らの果物に伸びた。

「食べるよ。これからは、ちゃんと。だって――――」

 その一言はまさしく、表裏一体。表があるからこそ、裏がある。裏があるからこそ、表がある。それを明確に表していた。

 力ない笑みを浮かべるその人に、複雑な心境のまま、料理を振る舞うため調理場へと足を向けた。

 部屋を出る瞬間、彼の名が耳に届く。

 あなたは今、どんな思いで生きているのか。

 坊ちゃんは、あなたのせいでこんなに苦しんでおられるのに。

 あなたはもう、坊ちゃんのことなど忘れてしまったのでしょうね。

 坊ちゃんを、裏切ったのはあなたなのだから。

 だからもう、坊ちゃんを解放してあげてください。

 ただ最後に聞いてみたいことが一つ。



 ――だって、生きていないとあいつを想っていられない。約束を、守れないから。



 あんなにも直向きな想いを、どうして裏切ることができたのですか。





【乳母はもう一つの表裏一体を知らない】

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